・・・しかしちょいと鼻の先の上った、愛敬の多い円顔である。 お嬢さんは騒がしい人ごみの中にぼんやり立っていることがある。人ごみを離れたベンチの上に雑誌などを読んでいることがある。あるいはまた長いプラットフォオムの縁をぶらぶら歩いていることもあ・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・三十前後の顔はそれよりも更けたるが、鋭き眼の中に言われぬ愛敬のあるを、客擦れたる婢の一人は見つけ出して口々に友の弄りものとなりぬ。辰弥は生得馴るるに早く、咄嗟の間に気の置かれぬお方様となれり。過分の茶代に度を失いたる亭主は、急ぎ衣裳を改めて・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ずつけども同伴の男が容易に立つ気色なければ大吉が三十年来これを商標と磨いたる額の瓶のごとく輝るを気にしながら栄えぬものは浮世の義理と辛防したるがわが前に余念なき小春が歳十六ばかり色ぽッてりと白き丸顔の愛敬溢るるを何の気もなく瞻めいたるにまた・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・その水中を泳ぐ格好がなかなか滑稽で愛敬があり到底水上では見られぬ異形の小妖精の姿である。鳥の先祖は爬虫だそうであるが、なるほどどこか鰐などの水中を泳ぐ姿に似たところがあるようである。もっとも親鳥がこんな格好をして水中を泳ぎ回ることは、かつて・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・ それ故西洋諸国の出版業者が、著者に対する尊敬と読者に対する愛敬とからして、やや高尚なる文学書類を多くパンフレツトで出版するのは、さもあるべき筈のことではないか。この仕方で出版された書物は、その特種なる国民的趣味を代表する表紙の一色によ・・・ 萩原朔太郎 「装幀の意義」
・・・そして、何時とはなく、双方がより多く会う機会も持ち、より深く知り合い、愛敬し合い、愛人となる場合が多いのです。 人間が真実に一人の異性を愛した場合、結婚は次に来る最も自然な結果だと思います。自分のこれ程愛する者と、どうかして共通な、心も・・・ 宮本百合子 「男女交際より家庭生活へ」
・・・お客に褒められ、友達の折合も好い、愛敬のあるお蝶が、この内のお上さんに気に入っているのは無理もない。 今一つ川桝でお蝶に非難を言うことの出来ないわけがある。それは外の女中がいろいろの口実を拵えて暇を貰うのに、お蝶は一晩も外泊をしないばか・・・ 森鴎外 「心中」
出典:青空文庫