・・・自分の作のどういう点がほんとに彼を感動さしたのか――それは一見明瞭のようであって、しかしどこやら捉えどころのない暗い感じだった。おそらくあの作の持っている罪業的な暗い感じに、彼はある親味と共鳴とを感じたのでもあろうが、それがひどく欠陥のある・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・彼が彼女の膚に触れているとき、そこにはなんの感動もなく、いつもある白じらしい気持が消えなかった。生理的な終結はあっても、空想の満足がなかった。そのことはだんだん重苦しく彼の心にのしかかって来た。そのうちに彼は晴ればれとした往来へ出ても、自分・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・それは文芸の傑作に触れた感動にも劣るものではない。そしてその感染性とわれわれの人格教養の血肉となり、滋養となり、霊感とさえもなる力もまた文芸の作品に劣るものではない。ただ文芸には文芸の約束があり、倫理学にはその特殊の約束があるのみである。カ・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・といって残り惜しそうに餌を見た彼の素直な、そして賢い態度と分別は、少からず予を感動させた。よしんば餌入れがなくて餌を保てぬにしても、差当り使うだけ使って、そこらに捨てて終いそうなものである。それが少年らしい当然な態度でありそうなものであ・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・青年はその笑顔に励まされて、感動したような様子で、手に持った帽をまた被って、老人の肩に手をかけて、自分の青ざめた、今叫んだので少し赤くなった顔を、老人の顔に近く寄せて、暫く目を見合せた。そして老人がまだ口を開く隙のないうちに、あわただしく、・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ 二 しかし、ディオニシアスについて伝えられているお話の中で、一ばん人を感動させるのは、怖らくピシアスとデイモンとのお話でしょう。 この二人は、どちらもピサゴラスの学徒と言って、ピサゴラスという、ずっと昔にい・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・ 私は名誉の家の所以を語り、重ねてまた大隅君の無感動の態度を非難した。「きょうはじめてお嫁さんと逢うんだというのに、十一時頃まで悠々と朝寝坊しているんですからね。ぶん殴ってやりたいくらいだ。」「喧嘩をしちゃいかん。どうも、同じク・・・ 太宰治 「佳日」
・・・こういう演奏には、感心はしても、感動し酔わされる事はない。いつでも楽器というものの意識が離れ得ない。 ストウピンがセロを弾いているのを聞いており見ていると、いつの間にか楽器が消えてしまう。演奏者の胸の中に鳴っている音楽が、きわめて自由に・・・ 寺田寅彦 「断片(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・ところどころ感動して手をたたこうと思っても、その暇がない。――われわれ労働者前衛は――というとき、歯ぎしりするようにドンドンとテェブルをたたく。 しかし、考えてみればおかしな演説会であった。工場がえりの組合員たちは、弁当箱をひざにのせた・・・ 徳永直 「白い道」
・・・日頃何につけても、時代と人情との変遷について感動しやすいわたくしには、母親のこの厚意が何とも言えない嬉しさを覚えさせた。竹の皮を別にして包んだ蓮根の煮附と、刻み鯣とに、少々甘すぎるほど砂糖の入れられていたのも、わたくしには下町育ちの人の好む・・・ 永井荷風 「草紅葉」
出典:青空文庫