・・・この女は近視だろうか、それとも、距離の感覚がまるでないのだろうかと、なんとなく迷惑していると、「いま、ちょっと出掛けて行きましたの」 その隙に話しに来た、――そんなことをされては困ると思った。私はむつかしい顔をした。 女はでかい・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・大阪弁というものは語り物的に饒舌にそのねちねちした特色も発揮するが、やはり瞬間瞬間の感覚的な表現を、その人物の動きと共にとらえた方が、大阪弁らしい感覚が出るのではなかろうか。大阪弁は、独自的に一人で喋っているのを聴いていると案外つまらないが・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・もしそのとき形骸に感覚が蘇えってくれば、魂はそれと共に元へ帰ったのであります。哀れなるかな、イカルスが幾人も来ては落っこちる。 K君はそれを墜落と呼んでいました。もし今度も墜落であったなら、泳ぎのできるK君です。溺れることは・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・ 義兄は落ちついてしまって、まるで無感覚である。「へ、お火鉢」婦はこんなことをそわそわ言ってのけて、忙しそうに揉手をしながらまた眼をそらす。やっと銀貨が出て婦は帰って行った。 やがて幕があがった。 日本人のようでない、皮膚の・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
一 倫理的な問いの先行 何が真であるかいつわりであるかの意識、何が美しいか、醜いかの感覚の鈍感な者があったら誰しも低級な人間と評するだろう。何が善いか、悪いか、正不正の感覚と興味との稀薄なことが人間として低・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・しかし老人は、感覚を失ったものゝのように動じなかった。彼は、本能的に白樺の下へ行くのを忌避していた。「あ、これだ、これだ!」 丘から下って来た看護卒は、老人が歩いて行く方へやって来た。そして、一人が云った。彼等は鮮人に接近すると、汚・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・三魂・六魂一空に帰し、感覚も記憶もただちに消滅しさるべき死者その人にとっては、なんのいたみもかなしみも、あるべきはずはないのである。死者は、なんの感ずるところなく、知るところなく、よろこびもなく、かなしみもなく、安眠・休歇にはいってしまうの・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・子の愛に溺れ浸っているこの親しい感覚は自然とおげんの胸に亡くなった旦那のことをも喚び起した。妻として尊敬された無事な月日よりも、苦い嫉妬を味わせられた切ない月日の方に、より多く旦那のことを思出すとは。おげんはそんな夫婦の間の不思議な結びつき・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・彼女の身内を貫いて、丁度満月の時、海の真中からゆらぎ出す潮のように、新たな、云うに云われない感覚が、流れました。スバーは、我と我身を顧みました。自分に問をかけても見ました、が、合点の行く答えは、何処からも来ません。 或る満月の晩おそく、・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・倫理は、おれは、こらえることができる。感覚が、たまらぬのだ。とてもがまんができぬのだ。 笑いの波がわっと館内にひろがった。嘉七は、かず枝に目くばせして外に出た。「水上に行こう、ね。」その前のとしのひと夏を、水上駅から徒歩で一時間ほど・・・ 太宰治 「姥捨」
出典:青空文庫