・・・自分は樗牛の慟哭には微笑した。が、そのもっともかすかな吐息には、幾度も同情せずにいられなかった。――日は遠く海の上を照している。海は銀泥をたたえたように、広々と凪ぎつくして、息をするほどの波さえ見えない。その日と海とをながめながら、樗牛は砂・・・ 芥川竜之介 「樗牛の事」
・・・しかしながら行けども行けども他の道に出遇いかねる淋しさや、己れの道のいずれであるべきかを定めあぐむ悲しさが、おいおいと増してきて、軌道の発見せられていない彗星の行方のような己れの行路に慟哭する迷いの深みに落ちていくのである。四・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・けれども、さすがに窓の下を走る車のヘッドライトが暗闇の天井を一瞬明るく染めたのを見ると、慟哭の想いにかられた。 どういう心の動きからか、豹一はその後妓のところへしげしげと通った。工面して通う自分をあさましいと思った。なぜ通うのか訳がわか・・・ 織田作之助 「雨」
・・・死者は、なんの感ずるところなく、知るところなく、よろこびもなく、かなしみもなく、安眠・休歇にはいってしまうのに、これを悼惜し、慟哭する妻子・眷属その他の生存者の悲哀が、幾万年かくりかえされた結果として、なんびとも、死は漠然とかなしむべし、お・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・帰し、感覚も記憶も直ちに消滅し去るべき死者其人に取っては、何の悼みも悲みもあるべき筈はないのである、死者は何の感ずる所なく、知る所なく、喜びもなく、悲しみもなく、安眠・休歇に入って了うのに、之を悼惜し慟哭する妻子・眷族其他の生存者の悲哀が幾・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・という電文を、田舎の家にあてて頼信紙に書きしたためながら、当時三十三歳の長兄が、何を思ったか、急に手放しで慟哭をはじめたその姿が、いまでも私の痩せひからびた胸をゆすぶります。父に早く死なれた兄弟は、なんぼうお金はあっても、可哀想なものだと思・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・ 女の子は声を立てずに慟哭をはじめた。美濃は少し愉快になる。よい朝だと思った。「母上がよくない。ろくに読めもしない洋書なんかを買い込んで、ただページを切って、それだけでお得意、たいへんなお道楽だ。」美濃は寝たままで思いきり大袈裟に背・・・ 太宰治 「古典風」
・・・あきらかにかれ、発狂せむほどの大打撃、口きけぬほどの恐怖、唇までまっしろになって、一尺、二尺、坐ったままで後ずさりして、ついには隣りの六畳まで落ちのびて、はじめて人ごこち取りかえした様子、声を出さずに慟哭はじめた。家人の緊張は、その日より今・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・このように、遂げられなかった欲望がやっと遂げられたときの狂喜と、底なしの絶望の闇に一道の希望の微光がさしはじめた瞬間の慟哭とは一見無関係のようではあるが、実は一つの階段の上層と下層とに配列されるべきものではないかと思われる。 この流涕の・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・噴火を地神の慟哭と見るのは適切な譬喩であると言わなければなるまい。「すなわち天にまい上ります時に、山川ことごとに動み、国土皆震りき」とあるのも、普通の地震よりもむしろ特に火山性地震を思わせる。「勝ちさびに天照大御神の営田の畔離ち溝埋め、また・・・ 寺田寅彦 「神話と地球物理学」
出典:青空文庫