・・・その弟の主水重昌は、慶長十九年大阪冬の陣の和が媾ぜられた時に、判元見届の重任を辱くしたのを始めとして、寛永十四年島原の乱に際しては西国の軍に将として、将軍家御名代の旗を、天草征伐の陣中に飜した。その名家に、万一汚辱を蒙らせるような事があった・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・ この橋は、おおむかしの慶長七年に始めて架けられて、そののち十たびばかり作り変えられ、今のは明治四十四年に落成したものである。大正十二年の震災のときは、橋のらんかんに飾られてある青銅の竜の翼が、焔に包まれてまっかに焼けた。 私の幼時・・・ 太宰治 「葉」
・・・ 土佐における大地変の最初の記録としては、西暦六八四年天武天皇の時代の地震で、土地五十万頃が陥落して海となったという記録があり、それからずっと後には慶長九年と宝永四年ならびに安政元年とこの三回の大地震が知られており、このうちで、後の二回・・・ 寺田寅彦 「怪異考」
・・・江戸でも慶長寛永寛政文政のころの記録がある。耽奇漫録によると文政七年の秋降ったものは、長さの長いのは一尺七寸もあったとある。この前後伊豆大島火山が活動していた事が記録されているが、この時ちょうど江戸近くを通った台風のためにぐあい・・・ 寺田寅彦 「化け物の進化」
・・・忠利の兄与一郎忠隆の下についていたので、忠隆が慶長五年大阪で妻前田氏の早く落ち延びたために父の勘気を受け、入道休無となって流浪したとき、高野山や京都まで供をした。それを三斎が小倉へ呼び寄せて、高見氏を名のらせ、番頭にした。知行五百石であった・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・十三年四月赤松殿阿波国を併せ領せられ候に及びて、景一は三百石を加増せられ、阿波郡代となり、同国渭津に住居いたし、慶長の初まで勤続いたし候。慶長五年七月赤松殿石田三成に荷担いたされ、丹波国なる小野木縫殿介とともに丹後国田辺城を攻められ候。当時・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
豊太閤が朝鮮を攻めてから、朝鮮と日本との間には往来が全く絶えていたのに、宗対馬守義智が徳川家の旨を承けて肝いりをして、慶長九年の暮れに、松雲孫、文※の国書は江戸へ差し出した。次は上々官金僉知、朴僉知、喬僉知の三人で、これは・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
京都の高瀬川は、五条から南は天正十五年に、二条から五条までは慶長十七年に、角倉了以が掘ったものだそうである。そこを通う舟は曳舟である。元来たかせは舟の名で、その舟の通う川を高瀬川と言うのだから、同名の川は諸国にある。しかし・・・ 森鴎外 「高瀬舟縁起」
上 この武蔵野は時代物語ゆえ、まだ例はないが、その中の人物の言葉をば一種の体で書いた。この風の言葉は慶長ごろの俗語に足利ごろの俗語とを交ぜたものゆえ大概その時代には相応しているだろう。 ああ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・書いた時期は慶長の末ごろ、十七世紀の初めと推定せられている。 この書を通読すれば、おそらく誰の目にも性質の異なる部分が識別せられるであろうと思う。は高坂弾正の立場で物を言っている部分である。は信玄一代記と山本勘助伝とのからみ合わせで、勘・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫