・・・「実はね、今妻が憚りへ行きたいと云うものだから、わしたちについて来た学生たちが、場所を探しに行ってくれた所じゃ。」ちょうど今頃、――もう路ばたに毬栗などが、転がっている時分だった。 少将は眼を細くしたまま、嬉しそうに独り微笑した。――そ・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・「謹さん、お手紙、」 と階子段から声を掛けて、二階の六畳へ上り切らず、欄干に白やかな手をかけて、顔を斜に覗きながら、背後向きに机に寄った当家の主人に、一枚を齎らした。「憚り、」 と身を横に、蔽うた燈を離れたので、玉ぼやを透か・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・面合すに憚りたれば、ソと物の蔭になりつ。ことさらに隔りたれば窃み聴かむよしもあらざれど、渠等空駕籠は持て来たり、大方は家よりして迎に来りしものならむを、手を空しゅうして帰るべしや。 一同が庵を去らむ時、摩耶もまた去らでやある、もの食わで・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・見ずや、きみ、やかなの鋭き匕首をもって、骨を削り、肉を裂いて、人性の機微を剔き、十七文字で、大自然の深奥を衝こうという意気込の、先輩ならびに友人に対して済まぬ。憚り多い処から、「俳」を「杯」に改めた。が、一盞献ずるほどの、余裕も働きもないか・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・男おはむきに深切だてして、結びやるとて、居屈みしに、憚りさまやの、とて衝と裳を掲げたるを見れば、太脛はなお雪のごときに、向う脛、ずいと伸びて、針を植えたるごとき毛むくじゃらとなって、太き筋、蛇のごとくに蜿る。これに一堪りもなく気絶せり。猿の・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・「これは憚り……」「いいえ。」 と、もう縞の小袖をしゃんと端折って、昼夜帯を引掛に結んだが、紅い扱帯のどこかが漆の葉のように、紅にちらめくばかり。もの静な、ひとがらな、おっとりした、顔も下ぶくれで、一重瞼の、すっと涼しいのが、ぽ・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・ 夫人の姿像のうちには、胸ややあらわに、あかんぼのお釈迦様を抱かるるのがあるから、――憚りつつも謹んで説おう。 ここの押絵のうちに、夫人が姿見のもとに、黒塗の蒔絵の盥を取って手水を引かるる一面がある。真珠を雪に包んだような、白羽二重・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・三階にこの火の勢いは、大地震のあとでは、ちと申すのも憚りあるばかりである。 湯にも入った。 さて膳だが、――蝶脚の上を見ると、蕎麦扱いにしたは気恥ずかしい。わらさの照焼はとにかくとして、ふっと煙の立つ厚焼の玉子に、椀が真白な半ぺんの・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・「これは憚り、いいえ、それには。」「まあ、好きにおさせなさいまし。」 と壁の隅へ、自分の傍へ、小膝を浮かして、さらりと遣って、片手で手巾を捌きながら、「ほんとうにちと暖か過ぎますわね。」「私は、逆上るからなお堪りません。・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・うわさの恋や真の恋や、家の内ではさすがに多少の遠慮もあるが、外で働いてる時には遠慮も憚りもいらない。時には三丁と四丁の隔たりはあっても同じ田畝に、思いあっている人の姿を互いに遠くに見ながら働いている時など、よそ目にはわからぬ愉快に日を暮らし・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
出典:青空文庫