・・・あのね、ほら、左官屋さんなんか、はいているじゃないか、ぴちっとした紺の股引さ、あんなの無いかしら、ね、と懸命に説明して呉服屋さん、足袋屋さんに聞いて歩いたのですが、さあ、あれは、いま、と店の人たち笑いながら首を振るのでした。もう、だいぶ暑い・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・もっと、いじらしい、懸命な思いで私の傍にいてくれたのかも知れない。女房は私を、だましていなかった。私は悪い。けれども、それだけの話だ。私は女房に、どんな応答をしたらいいのか。私はおまえを愛していない。けれども、それは素知らぬ振りして、一生お・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・おれは右党の席を一しょう懸命注意して見た。 そしてこう決心した。「どうもこいつの方が信用が置けそうだ。この卓や腰掛が似ているように、ここに来て据わる先生達が似ているなら、おれは襟に再会することは断じて無かろう。」 こう思って、あたり・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・南国の盛夏の真昼間の土蔵の二階の窓をしめ切って、満身の汗を浴びながら石油ランプに顔を近寄せて、一生懸命に朦朧たる映像を鮮明にかつ大きくすることに苦心した当時の心持ちはきのうのことのように記憶に新たである。青と赤のインキで塗った下手な鳥の絵の・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・それで懸命にいわゆる美文を暗唱したりしたが、そういう錯覚は年とともに消滅してしまった。修辞法は器械の減摩油のような役目はするが、器械がなくては仕事はできないのである。世阿弥の能楽に関する著書など、いわゆる文章としてはずいぶん奇妙なものである・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・周囲がみんななまけて金を使っている中でこの横町の人たちだけは懸命で働いて金をもうけているのである。 このへんで道をきくと「これをまっすぐに、まっすぐに……」と言われるにきまっているらしい。まっすぐに行かれるように道ができているのである。・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・そうして懸命の力で反抗しあばれ回る。「ひどく一同を手こずらせた」と探険隊長の演説の中でも紹介されているが、これは子熊の立場からは当然のことであろう。あばれる子熊の横顔へ防寒長靴をはいた人間の足がいくつも飛んで来る。これも人間の立場からは当然・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・大正十二年関東大震災以前から既に地震学に興味をもっていたが、大震災の惨害を体験した動機から、地震に対する特殊の研究機関の必要を痛感し、時の総長古在由直氏に進言し、その後援の下に懸命の努力をもって奔走した結果、遂に東京帝国大学附属地震研究所の・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
・・・今言う通り天下に職業の種類が何百種何千種あるか分らないくらい分布配列されているにかかわらず、どこへでも融通が利くべきはずの秀才が懸命に馳け廻っているにもかかわらず、自分の生命を託すべき職業がなかなか無い。三箇月も四箇月も遊んでいる人があるの・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・女「只懸命に盾の面を見給え」と云う。ウィリアムは無言のまま盾を抱いて、池の縁に坐る。寥廓なる天の下、蕭瑟なる林の裏、幽冷なる池の上に音と云う程の音は何にも聞えぬ。只ウィリアムの見詰めたる盾の内輪が、例の如く環り出すと共に、昔しながらの微かな・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫