・・・瀬田の長橋渡る人稀に、蘆荻いたずらに風に戦ぐを見る。江心白帆の一つ二つ。浅き汀に簾様のもの立て廻せるは漁りの業なるべし。百足山昔に変らず、田原藤太の名と共にいつまでも稚き耳に響きし事は忘れざるべし。湖上の景色見飽かざる間に彦根城いつしか後に・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ 庭の隅でカサカサ、八ツ手か何かが戦ぐ音がした。 チュッチュッ! チー チュック チー。…… 暖い日向は、白い寝台掛布の裾を五寸ばかり眩ゆい光に燦めかせて窓際の床の一部に漂っている。 彼は明るさや、静けさ暖かさの故で平和な、・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・百花園の末枯れた蓮池の畔を歩いていた頃から大分空模様が怪しくなり、蝉の鳴く、秋草の戦ぐ夕焼空で夏の末らしい遠雷がしていた。帰りは白鬚から蒸気船で吾妻橋まで戻る積りで、暗い混雑した向島の堤を行った。家に帰る沢山の空馬力、自転車、労働者が照明の・・・ 宮本百合子 「九月の或る日」
・・・風で、彼方の崖の樹が戦ぐ。その時、川瀬の音を縫い乍ら、静かに聞えた藪鶯のホーホケキョ。――午後が、ひどくひっそりと永く感じられた。 宮本百合子 「木蔭の椽」
・・・お前の裡には慕しい我北国の田園も日に戦ぐユーカリの葉もある。野に還し、不思議な清澄への我ノスタルジアを癒して呉れるのはお前の見えない心の扉ばかりだ。無限の世界の上にただ ひとひら軽く ふわりと とどま・・・ 宮本百合子 「五月の空」
・・・ その絵から私は強い印象を受け、こうやって書いていても、黝んだ蓮の折れ葉の下に戦ぐ鷺の頸の白い羽毛を感じる。――その絵の中に一本の蓼がある。蓮の中から高く空中に花を咲かせている。不思議な奥深い寂寞の感じは、動かぬその蓼の房花によって・・・ 宮本百合子 「蓮花図」
・・・ 二階では稀に一しきり強い風が吹き渡る時、その音が聞えるばかりであったが、下に降りて見ると、その間にも絶えず庭の木立の戦ぐ音や、どこかの開き戸の蝶番の弛んだのが、風にあおられて鳴る音がする。その間に一種特別な、ひゅうひゅうと、微かに長く・・・ 森鴎外 「心中」
出典:青空文庫