・・・これほど手垢さえつかずにいたらば、このまま額縁の中へ入れても――いや、手垢ばかりではない。何か大きい10の上に細かいインクの楽書もある。彼は静かに十円札を取り上げ、口の中にその文字を読み下した。「ヤスケニシヨウカ」 保吉は十円札を膝・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ナイフで色々ないたずら書きが彫りつけてあって、手垢で真黒になっているあの蓋を揚げると、その中に本や雑記帳や石板と一緒になって、飴のような木の色の絵具箱があるんだ。そしてその箱の中には小さい墨のような形をした藍や洋紅の絵具が……僕は顔が赤くな・・・ 有島武郎 「一房の葡萄」
・・・少なくも、その書中から、滋養を摂るのに、それも稀にしかない本でゞもないかぎり、手垢がついていては、不快を禁ずることができないのであります。 書物でも、雑誌でも、私はできるだけ綺麗に取扱います。それなら、それ程、書物というものをありがたく・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・松本の手垢がついていると思えぬほど、痩せた体なのだ。坂田はなにかほっとして、いつものように身をかがめてゆで玉子屋の表戸に手をかけた。 織田作之助 「雪の夜」
・・・かような指導書を見出したときには、これをくりかえし、幾度となく熟読し、玩味し、その解答を検討すべきである。手垢に汚れ、ページがほどけるほど首引きするのこそ指導書である。 広く読書することも必要であるが、指導書を精読することは一層大切であ・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・しかし、よく見ると、手垢が紙にしみこんでいなかった。皺も一時に、故意につけられたものだ。 郵便局では、隣にある電信隊の兵タイが、すぐやってきて、札を透かしたり指でパチ/\はじいたりした。珍しそうにそれを眺め入った。「うまくやる奴もあ・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 雑貨店の内儀に緒を見せて貰いながら、母は、「藤よ、そんなに店の物をいらいまわるな。手垢で汚れるがな。」と云った。「いゝえ、いろうたって大事ござんせんぞな。」と内儀は愛相を云った。 緒は幾十条も揃えて同じ長さに切ってあった。・・・ 黒島伝治 「二銭銅貨」
・・・悪口をいえば骨董は死人の手垢の附いた物ということで、余り心持の好いわけの物でもなく、大博物館だって盗賊の手柄くらべを見るようなものだが、そんな阿房げた論をして見たところで、野暮な談で世間に通用しない。骨董が重んぜられ、骨董蒐集が行われるお蔭・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・唯一のHにも、他人の手垢が附いていた。生きて行く張合いが全然、一つも無かった。ばかな、滅亡の民の一人として、死んで行こうと、覚悟をきめていた。時潮が私に振り当てた役割を、忠実に演じてやろうと思った。必ず人に負けてやる、という悲しい卑屈な役割・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・ 今官一君が、いま、パウロの事を書いているのを知り、私も一夜、手垢の附いた聖書を取り出して、パウロの書簡を読み、なぜだか、しきりに今官一君に声援を送りたくなった次第である。 太宰治 「パウロの混乱」
出典:青空文庫