・・・長雨の中に旗を垂らした二万噸の××の甲板の下にも鼠はいつか手箱だの衣嚢だのにもつきはじめた。 こう云う鼠を狩るために鼠を一匹捉えたものには一日の上陸を許すと云う副長の命令の下ったのは碇泊後三日にならない頃だった。勿論水兵や機関兵はこの命・・・ 芥川竜之介 「三つの窓」
・・・ つい目の前を、ああ、島田髷が流れる……緋鹿子の切が解けて浮いて、トちらりと見たのは、一条の真赤な蛇。手箱ほど部の重った、表紙に彩色絵の草紙を巻いて――鼓の転がるように流れたのが、たちまち、紅の雫を挙げて、その並木の松の、就中、山より高・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・と自分は大急ぎで仕度し、手箱から亡父の写真を取り出して懐中した。 小春日和の日曜とて、青山の通りは人出多く、大空は澄み渡り、風は砂を立てぬほどに吹き、人々行楽に忙がしい時、不幸の男よ、自分は夢地を辿る心地で外を歩いた。自分は今もこの時を・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・見ると、手箱にも、棚にも、寝台札にも、私の名前がはっきり書きこまれてあった。 二年兵は、軍服と、襦袢、袴下を出してくにから着てきた服をそれと着換えるように云った。 うるおいのない窓、黒くすゝけた天井、太い柱、窮屈な軍服、それ等のもの・・・ 黒島伝治 「入営前後」
・・・ 伍長は、手箱の湯呑をいじっていたが、観音経は忘れたかのように口にしなかった。「俺ゃ、また銃を持てえ云うたって、どうしろ云うたって、動けやせん!」骨折の上等兵は泣き顔をした。 八 錆のきた銃をかついだ者が、・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・オオビュルナンはマドレエヌの昔使っていた香水の匂い、それから手箱の蓋を取って何やら出したこと、それからその時の室内の午後の空気を思い出した。この記念があんまりはっきりしているので、三十三歳の世慣れ切った小説家の胸が、たしかに高等学校時代の青・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・髪でも結ってくれるので満足して一通りの遊芸は心得て居て手の奇麗な目の細くて切れのいい唇もわりに厚くて小さく、手箱の中にあねさまの入って居るようなごく初心い娘がすき。 当世風の娘ならば丈の高い、少しふとり肉の手のふっくりとして小さい、眼の・・・ 宮本百合子 「妙な子」
・・・ 当庵は斯様に見苦しく候えば、年末に相迫り相果て候を見られ候方々、借財等のため自殺候様御推量なされ候事も可有之候えども、借財等は一切無き某、厘毛たりとも他人に迷惑相掛け申さず、床の間の脇、押入の中の手箱には、些少ながら金子貯えおき候えば、・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
出典:青空文庫