・・・それだけにまた彼の手足となる門弟の数も多かった。甚太夫はそこで惴りながらも、兵衛が一人外出する機会を待たなければならなかった。 機会は容易に来なかった。兵衛はほとんど昼夜とも、屋敷にとじこもっているらしかった。その内に彼等の旅籠の庭には・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・私の足がどんな所に立っているのだか、寒いのだか、暑いのだか、すこしも私には分りません。手足があるのだかないのだかそれも分りませんでした。 抜手を切って行く若者の頭も段々小さくなりまして、妹との距たりが見る見る近よって行きました。若者の身・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・白い革紐は、腰を掛けている人をらくにして遣ろうとでもするように、巧に、造作もなく、罪人の手足に纏わる。暫くの間、獄丁の黒い上衣に覆われて、罪人の形が見えずにいる。一刹那の後に、獄丁が側へ退いたので、フレンチが罪人を見ると、その姿が丸で変って・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 優しく背を押したのだけれども、小僧には襟首を抓んで引立てられる気がして、手足をすくめて、宙を歩行いた。「肥っていても、湯ざめがするよ。――もう春だがなあ、夜はまだ寒い。」 と、納戸で被布を着て、朱の長煙管を片手に、「新坊、・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・人間は誰とて無事をこいねがうの念の無いものは無い筈であるが、身に多くの係累者を持った者、殊に手足まといの幼少者などある身には、更に痛切に無事を願うの念が強いのである。 一朝禍を蹈むの場合にあたって、係累の多い者ほど、惨害はその惨の甚しい・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・も四所も出て長持のはげたのを昔の新らしい時のようにぬりなおして木薬屋にやると男にこれと云うきずもなく身上も云い分がないんでやたらに出る事も出来ないので化病を起して癲癇を出して目をむき出し口から沫をふき手足をふるわせたんでこれを見てはあんまり・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・進んだ時も夢中であったんやが、さがる時も一生懸命――敵に見付かったらという怖さに、たッた独りぽッちの背中に各種の大砲小銃が四方八方からねらいを向けとる様な気がして、ひどう神経過敏になった耳元で、僕の手足が這うとる音がした。のぼせ切っておった・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・女房はこの出来事に体を縛り付けられて、手足も動かされなくなっているように、冷淡な心持をして、時の立つのを待っていた。そしてこの間に相手の女学生の体からは血が流れて出てしまうはずだと思っていた。 夕方になって女房は草原で起き上がった。体の・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・そして、そのうちに手足は凍えて、腹は空いて、自分は、このだれも人の通らない荒野の中で倒れて死んでしまわなければならぬだろうと考えました。 ちょうど、そのときであります。真っ黒な雲を破って、青くさえた月がちょっと顔を出しました。そして、月・・・ 小川未明 「宝石商」
・・・その代り秋末の肌寒さに、手足を蝦のように縮めて寝た。 周囲は鼾や歯軋の音ばかりで、いずれも昼の疲れに寝汚く睡りこんでいる。町を放れた場末の夜はひっそりとして、車一つ通らぬ。ただ海の鳴る音が宵に聞いたよりももの凄く聞える。私は体の休まると・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫