・・・ 曳声を揚げて……こっちは陽気だ。手頃な丸太棒を差荷いに、漁夫の、半裸体の、がッしりした壮佼が二人、真中に一尾の大魚を釣るして来た。魚頭を鈎縄で、尾はほとんど地摺である。しかも、もりで撃った生々しい裂傷の、肉のはぜて、真向、腮、鰭の下か・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・音も、形も馴染のものだが、仏具だから、俗家の小県は幼いいたずら時にもまだ持って見たことがない。手頃なのは大抵想像は付くけれども、かこみほとんど二尺、これだけの大きさだと、どのくらい重量があろうか。普通は、本堂に、香華の花と、香の匂と明滅する・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・売りに出ている店を一軒一軒廻ってみて、結局下寺町電停前の店が二ツ井戸から道頓堀、千日前へかけての盛り場に遠くない割に値段も手頃で、店の構えも小ぢんまりして、趣味に適っているとて、それに決めた。造作附八百円で手を打ったが、飛田の関東煮屋のよう・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・時に、君のごひいきの作者らしいモームは、あれは少し宿酔させる作家で、ちょうど君の舌には手頃なのだろう。しかし、君のすぐ隣にいる太宰という作家のほうが、少くとも、あのおじいさんよりは粋なのだということくらいは、知っておいてもいいだろうネ。・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・ただ、自分のいまの緊張を言いあらわすのに、ちょっと手頃な言葉だと思って、臨時に拝借してみたものらしい。アアメン、なるほど心が落ちつく。次女はもったい振り、足の下の小さい瀬戸の火鉢に、「梅花」という香を一つ焚べて、すうと深く呼吸して眼を細めた・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・その度ごとに本屋の書架から手頃らしいと思われる註釈本を物色しては買って来て読みかけるのであるが、第一本文が無闇に六かしい上にその註釈なるものが、どれも大抵は何となく黴臭い雰囲気の中を手捜りで連れて行かれるような感じのするものであった。それら・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・学生時代に夜更けて天文の観測をやらされた時など、暦表を繰って手頃な星を選み出し、望遠鏡の度盛を合わせておいて、クロノメーターの刻音を数えながら目的の星が視野に這入って来るのを待っている、その際どい一、二分間を盗んで吸付ける一服は、ことに凍る・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・ 涼しい風が、食事をして汗ばんだ顔を撫でて行くと同時に楽譜の頁を吹き乱した。そして頭の中のあらゆる濁ったものを吹き払うような気がした。 手頃な短い曲をいくつか弾いてから、いつもよくやるペルゴレシの Quando corpus mor・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・へと参らざるべからざる不運に際会せり、監督兼教師は○○氏なり、悄然たる余を従えて自転車屋へと飛び込みたる彼はまず女乗の手頃なる奴を撰んでこれがよかろうと云う、その理由いかにと尋ぬるに初学入門の捷径はこれに限るよと降参人と見てとっていやに軽蔑・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・「仕方がないから、襯衣を敷居の上へ乗せて、手頃な丸い石を拾って来て、こつこつ叩いた。そうしたら虱が死なないうちに、襯衣が破れてしまった」「おやおや」「しかもそれを宿のかみさんが見つけて、僕に退去を命じた」「さぞ困ったろうね」・・・ 夏目漱石 「二百十日」
出典:青空文庫