・・・僕は小えんの身になって見れば、上品でも冷淡な若槻よりも、下品でも猛烈な浪花節語りに、打ち込むのが自然だと考えるんだ。小えんは諸芸を仕込ませるのも、若槻に愛のない証拠だといった。僕はこの言葉の中にも、ヒステリイばかりを見ようとはしない。小えん・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・「磨いて見せるほどあたいが打ち込む男は、この国府津にゃアいないよ」とは、かの女がその時の返事であった。 住職の知り合いで、ある小銀行の役員をつとめている田島というものも、また、吉弥に熱くなっていることは、住職から聴いて知っていたが、・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・もし真にわが一心をこの画幅とこの自然とに打ち込むなら大砲の音だって聞こえないだろうと。そこで画板にかじりつくようにして画きはじめた。しかし何の益にも立たない、僕の心は七分がた後ろの音に奪われているのだから。 そこでまたこうも思った、何も・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・私は、五円の遊びに命を打ち込む。 私がカフェにはいっても、決して意気込んだ様子を見せなかった。遊び疲れたふうをした。夏ならば、冷いビールを、と言った。冬ならば、熱い酒を、と言った。私が酒を呑むのも、単に季節のせいだと思わせたかった。いや・・・ 太宰治 「逆行」
・・・彼女は、光る鋲でとめられた垂布の、深い皺の間々に、額に汗を掻いて、太い釘を打ち込む彼の白い腕を見る事が出来た。彼女は、今、彼方の部屋で、広い寝台の上に安眠して居るだろう彼の様子を心に描いて見た。 母の書を思い遣る時、自ずから、彼女の胸を・・・ 宮本百合子 「樹蔭雑記」
・・・はるかに狼が凄味の遠吠えを打ち込むと谷間の山彦がすかさずそれを送り返し,望むかぎりは狭霧が朦朧と立ち込めてほんの特許に木下闇から照射の影を惜しそうに泄らし、そして山気は山颪の合方となッて意地わるく人の肌を噛んでいる。さみしさ凄さはこればかり・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・と忽ち二人は襟を握って、無数の釘を打ち込むように打ち合った。ばたりと止めて組み合った。母親達は叫びを上げた。彼女達は、夫々自分の息子を引き放そうとした。が、二人の塊りは無言のまま微かな唸りを吐きつつ突き立って、鈍い振子のように暫く左右に揺れ・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫