・・・私が、つい先刻、酒の店で、もっとこの人たちに対して尊敬の念を抱くべきであると厳粛に考えた、その当の産業戦士の一人である。その人から、私は数秒後には、ありがとう、すみません、という叮嚀なお礼を言われるにきまっているのだ。恐縮とか痛みいるなどの・・・ 太宰治 「作家の手帖」
・・・私はこの警官に対して何となくいい感じを懐くと同時に自分の軽率な行為を恥じる心がかなり強く起った。 ここで自白しなければならない事は、私等が交番へはいると同時に、私は蟇口の中から自分の公用の名刺を出して警官に差出した事である。事柄の落着を・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 子規は世の中をうまく渡って行く芸術家や学者に対する反感を抱くと同時に、また自分に親しい芸術家や学者が世の中をうまく渡る事が出来なくて不遇に苦しんでいるのを歯痒く思っていたかのように私には感ぜられる。 三・・・ 寺田寅彦 「子規の追憶」
「美くしき多くの人の、美くしき多くの夢を……」と髯ある人が二たび三たび微吟して、あとは思案の体である。灯に写る床柱にもたれたる直き背の、この時少しく前にかがんで、両手に抱く膝頭に険しき山が出来る。佳句を得て佳句を続ぎ能わざるを恨みてか、・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・と女は跪いて両手に盾を抱く。ランスロットは長き袖を眉のあたりに掲げて、「赤し、赤し」という。 この時櫓の上を烏鳴き過ぎて、夜はほのぼのと明け渡る。 四 罪 アーサーを嫌うにあらず、ランスロットを愛するなりとはギニ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・むしろ彼は発育の不十分な、病身で内気で、たとい女のほうから言い寄られたにしても、嫌悪の感を抱くくらいな少年であった。器械体操では、金棒に尻上がりもできないし、木馬はその半分のところまでも届かないほどの弱々しさであった。 安岡は、次から次・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・かつまた天下の人、ことごとく文才を抱くべきにもあらざれば、辺境の土民、職業忙わしき人、晩学の男女等へ、にわかに横文字を読ませんとするは無理なり。これらへはまず翻訳書を教え、地理・歴史・窮理学・脩心学・経済学・法律学等を知らしむべし。・・・ 福沢諭吉 「学校の説」
・・・歌集にあるところをもってこれを推すに、福井辺の人、広く古学を修め、つとに勤王の志を抱く。松平春岳挙げて和歌の師とす、推奨最つとむ。しかれども赤貧洗うがごとく常に陋屋の中に住んで世と容れず。古書堆裏独破几に凭りて古を稽え道を楽む。詠歌のごとき・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・薄穢く丸っこいところから、細々したことに好奇心を抱くところ、慾張りそうなところ、睦まじく互いにそっくり似合っている。 始めての経験である間借りの生活に興味を覚えつつ、陽子は部屋を居心地よく調えた。南向の硝子窓に向って机、椅子、右手の襖際・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・などと現在のある境遇に反撥心を抱くことは、現実の生に対するふまじめであり、また現実からの逃避である。そこにはもはや自己の改造や成長の望みはない。我々はただ現在の運命を如実に見きわめることによって、多産なる未来の道をきり開く事ができる。時には・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫