・・・しながら栄えぬものは浮世の義理と辛防したるがわが前に余念なき小春が歳十六ばかり色ぽッてりと白き丸顔の愛敬溢るるを何の気もなく瞻めいたるにまたもや大吉に認けられお前にはあなたのような方がいいのだよと彼を抑えこれを揚ぐる画策縦横大英雄も善知識も・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・上に二人も兄があって絶えず頭を押えられることも、三郎を不平にしたらしい。それに、次郎びいきのお徳が婆やにかわって私の家へ奉公に来るようになってからは、今度は三郎が納まらない。ちょうど婆やの太郎びいきで、とかく次郎が納まらなかったように。・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・肩のところへ坐って夜着の袖をも押えてくれる。自分は何だか胸苦しいような気がする。やがてあちらで藤さんが帯を解く気色がする。章坊は早く小さな鼾になる。自分は何とはなしに寝入ってしまうのが惜しい。「ね、小母さん」とふたたび話しかける。「・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・この世に暮して行くからには、どうしても誰かに、ぺこぺこ頭を下げなければいけないのだし、そうして歩一歩、苦労して人を抑えてゆくより他に仕様がないのだ。あの人に一体、何が出来ましょう。なんにも出来やしないのです。私から見れば青二才だ。私がもし居・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・ ポルジイは非常な決心と抑えた怒とを以て、書きものに従事している。夕食にはいつも外へ出るのだが、今日は従卒に内へ持って来させた。食事の時は、赤葡萄酒を大ぶ飲んで、しまいにコニャックを一杯飲んだ。 翌日まだ書いている。前日より一層劇し・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・のこと、男は例の帽子、例のインバネス、例の背広、例の靴で、例の道を例のごとく千駄谷の田畝にかかってくると、ふと前からその肥った娘が、羽織りの上に白い前懸けをだらしなくしめて、半ば解きかけた髪を右の手で押さえながら、友達らしい娘と何ごとかを語・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・そうして激昂する心を抑えてピアノの前に坐り所定曲目モザルトの一曲を弾いているうちにいつか頭が変になって来て、急に嵐のような幻想曲を弾き出す、その狂熱的な弾奏者の顔のクローズアップに重映されて祖国の同志達の血潮に彩られた戦場の光景が夢幻のごと・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・けれども、出入りの八百屋の御用聞き春公と、家の仲働お玉と云うのが何時か知ら密通して居て、或夜、衣類を脊負い、男女手を取って、裏門の板塀を越して馳落ちしようとした処を、書生の田崎が見付けて取押えたので、お玉は住吉町の親元へ帰されると云う大騒ぎ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・はっと押えた時文造の手の平は赤くなった。犬の血に尋いで更に文造の血が番小屋に灑がれた。雨の大きな粒がまばらに蜀黍の葉を打って来た。霧の如く白雨の脚が軟弱な稲を蹴返し蹴返し迫って来た。田甫を渡って文造はひた走りに走った。夕立がどっと来た。黄褐・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 女は両手を延ばして、戴ける冠を左右より抑えて「この冠よ、この冠よ。わが額の焼ける事は」という。願う事の叶わばこの黄金、この珠玉の飾りを脱いで窓より下に投げ付けて見ばやといえる様である。白き腕のすらりと絹をすべりて、抑えたる冠の光りの下・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫