・・・彼れは持った事のないものを強いて押付けられたように当惑してしまった。その押付けられたものは恐ろしく重い冷たいものだった。何よりも先ず彼れは腹の力の抜けて行くような心持ちをいまいましく思ったがどうしようもなかった。 勿体ぶって笠井が護符を・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・後にはこれに懲りて、いよいよという時の少し前に、眼は望遠鏡に押付けたまま、片手は鉛筆片手は観測簿で塞がっているから、口で煙草を吹き出して盲目捜しに足で踏み消すというきわどい芸当を演じた。火事を出さなかったのが不思議なくらいである。 油絵・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・と声をかけたので、わたくしは土地の名のなつかしさに、窓硝子に額を押付けて見たが、木も水も何も見えない中に、早くも市営電車向嶋の終点を通り過ぎた。それから先は電車と前後してやがて吾妻橋をわたる。河向に聳えた松屋の屋根の時計を見ると、丁度九時…・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・ギニヴィアは幕の前に耳押し付けて一重向うに何事をか聴く。聴きおわりたる横顔をまた真向に反えして石段の下を鋭どき眼にて窺う。濃やかに斑を流したる大理石の上は、ここかしこに白き薔薇が暗きを洩れて和かき香りを放つ。君見よと宵に贈れる花輪のいつ摧け・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・それは人の気持の自然ですから、理窟で説き伏せるとか気持がそぐわないのにそれは道理だからといって押付けられたら間違っても仕方がないけれども、しかしわれわれの生活はここで間違っても結構だというように過去においても今においても楽だったとは思われな・・・ 宮本百合子 「幸福の建設」
出典:青空文庫