・・・ 帳場は抽象論から実際論に切込んで行った。「馬はあるが、プラオがねえだ」 仁右衛門は鼻の先きであしらった。「借りればいいでねえか」「銭子がねえかんな」 会話はぷつんと途切れてしまった。帳場は二度の会見でこの野蛮人をど・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・大衆といい、民衆といい、抽象的に、いかように人間を考えらるゝことはあっても、実際に於ける、大衆の生活、民衆の生活は、全く個別的のものであった。 どこに行っても、人間は、みな自分と同じように、たえず、何ものかを求めている。そして、苦しんで・・・ 小川未明 「彼等流浪す」
・・・階級というものは、単に、言葉だけでは、真理とか、正義とか、言う場合のごとく抽象的なものです。真に、最も親しき者に対してすら、純一ならざるものが、他の何人に対して、よく純一であり得ましょうか。我が階級のためという言葉を疑わざるを得ません。・・・ 小川未明 「文化線の低下」
・・・ 吉田はこれまでこの統計からは単にそういうようなことを抽象して、それを自分の経験したそういうことにあてはめて考えていたのであるが、荒物屋の娘の死んだことを考え、また自分のこの何週間かの間うけた苦しみを考えるとき、漠然とまたこういうことを・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・財から抽象されたものでなく、実質的存在を持っている。 次にある価値を実現せしめることが、それ自らには善でも悪でもないというカントの考えは、価値が平等であるときには正しいが、実質的価値には等級がある。したがって意欲の対象たる価値そのものに・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・そうした表現が今日の場合抽象にすぎるならば、人間生活の具体的な単位である国民道を共に生き得るときは結合せよ。その希望が持てず、その見通しができないときは別離せよ。とでもいっておいて大過ないであろう。かくてなお不幸にして一つの結合に破れたから・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・ここに言う『めし』とは、生活形態の抽象でもなければ、生活意慾の概念でもない。直接に、あの茶碗一ぱいのめしのことを指して言っているのだ。あのめしを噛む、その瞬間の感じのことだ。動物的な、満足である。下品な話だ。……」 私は、未だ中学生であ・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・「それはつまり抽象して言っているのでしょうか。」「いいえ。」青扇はいぶかしそうに僕の瞳を覗いた。「私のことを言っているのですけれど?」 僕はまたまた憐愍に似た情を感じたのである。「まあ、きょうは僕はこれで帰りましょう。きっと・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・けれども私は抽象的なものの言いかたを能う限り、ぎりぎりにつつしまなければいけない。なんとも、果しがつかないからである。一こと理窟を言いだしたら最後、あとからあとから、まだまだと前言を追いかけていって、とうとう千万言の註釈。そうして跡にのこる・・・ 太宰治 「玩具」
・・・という抽象的な悲しみに、急激に襲われたためだと思う。特に私を選んで泣いたのでは無いと、わかっていながら、それでも、強く私は胸を突かれた。も少し、親しくして置けばよかったと思った。 これだけのことでも、やはり、「のろけ」という事になるので・・・ 太宰治 「俗天使」
出典:青空文庫