・・・跡には二人さし合も、涙拭うて三千歳が、恨めしそうに顔を見て、お蔦 ほんとうなのねえ。早瀬 俺があやまる、頭を下げるよ。お蔦 切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。蔦には枯れろ、・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・民子は涙を拭うた様であった。ちょうどよくそこへ馬が見えてきた。西側の山路から、がさがさ笹にさわる音がして、薪をつけた馬を引いて頬冠の男が出て来た。よく見ると意外にも村の常吉である。この奴はいつか向うのお浜に民子を遊びに連れだしてくれと頻りに・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・母はとうから涙を拭うている。おとよはもとより苦痛に身をささえかねている。「それもこれもお前が心一つを取り直しさえすれば、おまえの運はもちろん、家の面目も潰さずに済むというものだ。省作とてお前がなければまたえい所へも養子に行けよう。万方都・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・田舎は秋晴拭うが如く、校長細川繁の庭では姉様冠の花嫁中腰になって張物をしている。 さて富岡先生は十一月の末終にこの世を辞して何国は名物男一人を失なった。東京の大新聞二三種に黒枠二十行ばかりの大きな広告が出て門人高山文輔、親戚細川繁、友人・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・同二十一日――「秋天拭うがごとし、木葉火のごとくかがやく」十月十九日――「月明らかに林影黒し」同二十五日――「朝は霧深く、午後は晴る、夜に入りて雲の絶間の月さゆ。朝まだき霧の晴れぬ間に家を出で野を歩み林を訪う」同二十六日――・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・イッチをひねった結果、さっと光の洪水、私の失言も何も一切合切ひっくるめて押し流し、まるで異った国の樹陰でぽかっと眼をさましたような思いで居られるこの機を逃さず、素知らぬ顔をして話題をかえ、ひそかに冷汗拭うて思うことには、ああ、かのドアの陰い・・・ 太宰治 「喝采」
・・・右手の甲で額の汗をそっと拭うた。女中に案内されて客間にとおされ、わざと秀才の学生らしく下手にきちんと坐って、芝生の敷きつめられたお庭を眺め、筆一本でも、これくらいの生活ができるのだ、とずいぶん気強く思ったものだ。こよい死ぬる者にとってはふさ・・・ 太宰治 「狂言の神」
きのうきょう、狂せむほどに苦しきこと起り、なすところなく額の油汗拭うてばかりいたのであるが、この苦しみをよそにして、いま、日本文学に就いての涼しげなる記述をしなければならない。こうしてペンを握ったまま、目を閉じると、からだ・・・ 太宰治 「古典竜頭蛇尾」
・・・発汗剤のききめか、漂うような満身の汗を、妻は乾いたタオルで拭うてくれた時、勝手の方から何も知らぬ子供がカタコトと唐紙をあけて半分顔を出してにこにこした。その時自分は張りつめた心が一時にゆるむような気がして心淋しく笑ったが、眼からは涙が力なく・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・自分はそっとこの甲虫をつまみ上げてハンケチで背中の泥を拭うていると、隣の女が「それは毒虫じゃありませんか」と聞いた。虫をハンケチにくるんでカクシに押し込んでから自分はチェスタートンの『ブラウン教父の秘密』の読みかけを読みつづけた。 研究・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
出典:青空文庫