・・・と拱いたる手を振りほどいて、六尺二寸の躯をゆらりと起す。「行くか?」とはギニヴィアの半ば疑える言葉である。疑える中には、今更ながら別れの惜まるる心地さえほのめいている。「行く」といい放って、つかつかと戸口にかかる幕を半ば掲げたが、や・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・彼は閂を両手に握って、盲目滅法に振り廻した。そいつが支那人の身体に当り、頭や腕をヘシ折るのだった。「それ、あなた。すこし、乱暴あるネ。」 と叫びながら、可憫そうな支那兵が逃げ腰になったところで、味方の日本兵が洪水のように侵入して来た・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・私はその手を振り切って、奴の横っ面を殴った。だが私の手が奴の横っ面へ届かない先に私の耳がガーンと鳴った、私はヨロヨロした。「ヨシ、ごろつき奴、死ぬまでやってやる」私はこう怒鳴ると共に、今度は固めた拳骨で体ごと奴の鼻っ柱を下から上へ向って・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・と、吉里は振り向きもしないで上の間へ入ッた。 客は二人である。西宮は床の間を背に胡座を組み、平田は窓を背にして膝も崩さずにいた。 西宮は三十二三歳で、むッくりと肉づいた愛嬌のある丸顔。結城紬の小袖に同じ羽織という打扮で、どことなく商・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
一本腕は橋の下に来て、まず体に一面に食っ附いた雪を振り落した。川の岸が、涜されたことのない処女の純潔に譬えてもいいように、真っ白くなっているので、橋の穹窿の下は一層暗く見えた。しかしほどなく目が闇に馴れた。数日前から夜ごと・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・わたくしは御免を蒙りまして、お家の戸閉だけいたしまして、錠前の処へはお寺から頂いて来たお水でも振り掛けて置きましょう。何にいたせわたくしはついぞあんな人間を見た事もございませんし、また人間があんな目付をいたしているはずがございません。主・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・君も一度は死ぬるのだよ、などとおどかしても耳にも聞こえない振りでいる。要するに健康な人は死などという事を考える必要も無く、又暇も無いので、唯夢中になって稼ぐとか遊ぶとかしているのであろう。 余の如き長病人は死という事を考えだす様な機会に・・・ 正岡子規 「死後」
・・・ びっくりして振りむいてみますと、赤いトルコ帽をかぶり、鼠いろのへんなだぶだぶの着ものを着て、靴をはいた無暗にせいの高い眼のするどい画かきが、ぷんぷん怒って立っていました。「何というざまをしてあるくんだ。まるで這うようなあんばいだ。・・・ 宮沢賢治 「かしわばやしの夜」
・・・「なり」振りにかまわないとは云うもののやっぱり「女」に違いないとつくづく思われる。 こないだっから仕掛けて居たものが「つまずい」て仕舞ったのでその事を思うと眉が一人手に寄って気がイライラして来る。 出掛ける気にもならず、仕たい事・・・ 宮本百合子 「秋風」
巌が屏風のように立っている。登山をする人が、始めて深山薄雪草の白い花を見付けて喜ぶのは、ここの谷間である。フランツはいつもここへ来てハルロオと呼ぶ。 麻のようなブロンドな頭を振り立って、どうかしたら羅馬法皇の宮廷へでも・・・ 森鴎外 「木精」
出典:青空文庫