・・・何しろYの事だから、床の間には石版摺りの乃木大将の掛物がかかっていて、その前に造花の牡丹が生けてあると云う体裁だがね。夕方から雨がふったのと、人数も割に少かったのとで、思ったよりや感じがよかった。その上二階にも一組宴会があるらしかったが、こ・・・ 芥川竜之介 「片恋」
・・・釣瓶でざぶりと汲上げ、片手の水差に汲んで、桔梗に灌いで、胸はだかりに提げた処は、腹まで毛だらけだったが、床へ据えて、円い手で、枝ぶりをちょっと撓めた形は、悠揚として、そして軽い手際で、きちんと極った。掛物も何も見えぬ。が、唯その桔梗の一輪が・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・窓の高い天井の低い割には、かなりに明るい六畳の一間で、申しわけのような床の間もあって、申しわけのような掛け物もかかって、お誂えの蝋石の玉がメリンスの蓐に飾られてある。更紗の掻巻を撥ねて、毛布をかけた敷布団の上に胡座を掻いたのは主の新造で、年・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・六 第二の破産状態に陥って、一日一日と惨めな空足掻きを続けていた惣治が、どう言って説きつけたものか、叔父から千円ばかしの価額の掛物類を借りだしたから、上京して処分してくれという手紙のあったのはもう十月も中旬過ぎであった。ちょ・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・だから床の間の掛物は年が年中朝日と鶴。警察、病院、事務所、応接室なぞは洋館の背景一つで間に合いますし、また、云々。』――『チャプリン氏を総裁に創立された馬鹿笑いクラブ。左記の三十種の事物について語れば、即時除名のこと。四十歳。五十歳。六十歳・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・茶室、茶庭、茶器、掛物、懐石の料理献立、読むにしたがって私にも興が湧いて来た。茶会というものは、ただ神妙にお茶を一服御馳走になるだけのものかと思っていたら、そうではない。さまざまの結構な料理が出る。酒も出る。まさかこの聖戦下に、こんな贅沢は・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・いつもならば夕凪の蒸暑く重苦しい時刻であるが、今夜は妙に湿っぽい冷たい風が、一しきり二しきり堤下の桑畑から渦巻いては、暗い床の間の掛物をあおる。草も木も軒の風鈴も目に見えぬ魂が入って動くように思われる。 浜辺に焚火をしているのが見える。・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・ この主婦の亡夫は南洋通いの帆船の船員であったそうで、アイボリー・ナッツと称する珍しい南洋産の木の実が天照皇大神の掛物のかかった床の間の置物に飾ってあった。この土地の船乗りの中には二、三百トンくらいの帆船に雑貨を積んで南洋へ貿易に出掛け・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・そうした行列の中を一台立派な高級自動車が人の流れに堰かれながらいるのを見ると、車の中には多分掛物でも入っているらしい桐の箱が一杯に積込まれて、その中にうずまるように一人の男が腰をかけてあたりを見廻していた。 帰宅してみたら焼け出された浅・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・たとえ胴中を枝の貫通した鳥の絵は富豪の床の間の掛物として工合が悪いかもしれぬが、そういう事を無視して絵を画く人が存在するという事実自身が一つの注目すべき啓示ではあるまいか。自分は少し見ているうちにこの種の非科学的な点はもうすっかり馴れてしま・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
出典:青空文庫