・・・そして、山の手人は食慾を失い、ロンドンが踏んまえている者の鼻面へオーデコロンをぬった鼻面を擦りつけさせられなければならぬ。 幅ひろい雨がロンドンに降った。夏の終りだ。ペーヴメントを濡し薄い女靴下をびっしょりにして降る雨は、自動車がほ・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・ と云って、花房は暫く擦り合せていた両手の平を、女の腹に当てた。そしてちょいと押えて見たかと思うと「聴診器を」と云った。 花房は佐藤の卓の上から取って渡す聴診器を受け取って、臍の近処に当てて左の手で女の脈を取りながら、聴診していたが・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・彼はピラミッドを浮かべた寝台の彫刻へ広い額を擦りつけた。ナポレオンの汗はピラミッドの斜線の中へにじみ込んだ。緞帳は揺れ続けた。と彼は寝台の上に跳ね起きた。すると、再び彼は笑い出した。「余は、余は、何物をも恐れはせぬぞ。余はアルプスを征服・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・ あの激しい情熱をもって妻を愛した彼は、今は感情の擦り切れた一個の機械となっているにすぎなかった。実際、この二人は、その互に受けた長い時間の苦痛のために、もう夫婦でもなければ人間でもなかった。二人の眼と眼を経だてている空間の距離には、ただ透・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・また栖方は梶に擦りよって来ると、突然声をひそめ、今まで抑えていたことを急に吐き出すように、「巡洋艦四隻と、駆逐艦四隻を沈めましたよ。光線をあてて、僕は時計をじっと計っていたら、四分間だった。たちまちでしたよ。」 あたりには誰もいなか・・・ 横光利一 「微笑」
・・・シナの玉についての講義の時に、先生は玉の味が単に色や形にはなくして触覚にあることを説こうとして、適当な言葉が見つからないかのように、ただ無言で右手をあげて、人さし指と中指とを親指に擦りつけて見せた。その時あのギョロリとした眼が一種の潤いを帯・・・ 和辻哲郎 「岡倉先生の思い出」
出典:青空文庫