・・・ はッと縁側に腰をかけた、女房は草履の踵を、清くこぼれた褄にかけ、片手を背後に、あらぬ空を視めながら、俯向き通しの疲れもあった、頻に胸を撫擦る。「姉さんも弱虫だなあ。東京から来て大尽のお邸に、褄を引摺っていたんだから駄目だ、意気地は・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・……嫁御はなるほど、わけしりの弟分の膝に縋って泣きたいこともありましたろうし、芸妓でしくじるほどの画師さんでございます、背中を擦るぐらいはしかねますまい、……でございますな。 代官婆の憤り方をお察しなさりとう存じます。学士先生は電報で呼・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・「わが冠の肉に喰い入るばかり焼けて、頭の上に衣擦る如き音を聞くとき、この黄金の蛇はわが髪を繞りて動き出す。頭は君の方へ、尾はわが胸のあたりに。波の如くに延びるよと見る間に、君とわれは腥さき縄にて、断つべくもあらぬまでに纏わるる。中四尺を・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 圭さんは何にも云わずに一生懸命にぐいぐい擦る。擦っては時々、手拭を温泉に漬けて、充分水を含ませる。含ませるたんびに、碌さんの顔へ、汗と膏と垢と温泉の交ったものが十五六滴ずつ飛んで来る。「こいつは降参だ。ちょっと失敬して、流しの方へ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・むやみに人生だ人生だと騒いでも、何が人生だか御説明にならん以上は、火の見えないのに半鐘を擦るようなもので、ちょっと景気はいいようだが、どいたどいたと駆けて行く連中は、あとから大に迷惑致すだろうと察せられます。人生に触れろと御注文が出る前に、・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・只弓を擦る右の手が糸に沿うてゆるく揺く。頭を纏う、糸に貫いた真珠の飾りが、湛然たる水の底に明星程の光を放つ。黒き眼の黒き髪の女である。クララとは似ても似つかぬ。女はやがて歌い出す。「岩の上なる我がまことか、水の下なる影がまことか」 ・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・と、西宮は仰山らしく腕を擦る。 小万はにっこり笑ッて、「あんまりひどい目に会わせておくれでないよ、虫が発ると困るからね」「はははは。でかばちもない虫だ」と、西宮。「ほほほほ。可愛い虫さ」「油虫じゃアないか」「苦労の虫さ」・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・あのトラホームの眼のふちを擦る青い石だ。あれを五かけ、紙に包んで持って来て、ぼくをさそった。巡査に押えられるよと云ったら、田から流れて来たと云えばいいと云った。けれども毒もみは卑怯だから、ぼくは厭だと答えたら、しゅっこは少し顔いろを変えて、・・・ 宮沢賢治 「さいかち淵」
・・・私は冬によくやる木片を焼いて髪毛に擦るとごみを吸い取ることを考えながら云いました。「行こう。今日僕うちへ一遍帰ってから、さそいに行くから。」「待ってるから。」私たちは約束しました。そしてその通りその日のひるすぎ、私たちはいっしょに出・・・ 宮沢賢治 「鳥をとるやなぎ」
・・・床を歩く群集のたてる擦るようなスースーという音。日本女はそれ等をやきつくように心に感覚しつつ郵便局の重い扉をあけたりしめたりした。 Yが帰ってから、アイサツに廻り、荷物のあまりをまとめ、疲れて、つかれて、しまいには早く汽車が出てゆっくり・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
出典:青空文庫