・・・昔、ジァン・リシュパンは通りがかりのサラア・ベルナアルへ傍若無人の接吻をした。日本人に生れた保吉はまさか接吻はしないかも知れないけれどもいきなり舌を出すとか、あかんべいをするとかはしそうである。彼は内心冷ひやしながら、捜すように捜さないよう・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・「一体接吻をする時には目をつぶっているものなのでしょうか? それともあいているものなのでしょうか?」 あらゆる女学校の教課の中に恋愛に関する礼法のないのはわたしもこの女学生と共に甚だ遺憾に思っている。 貝原益軒 ・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・あれは何人もの接吻の為に……」 僕はふと口を噤み、鏡の中に彼の後ろ姿を見つめた。彼は丁度耳の下に黄いろい膏薬を貼りつけていた。「何人もの接吻の為に?」「そんな人のように思いますがね」 彼は微笑して頷いていた。僕は彼の内心では・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・殊にそれが、接吻によって、迅速に伝染すると云う事実は、私以外にほとんど一人も知っているものはございません。この例は、優に閣下の傲慢なる世界観を破壊するに足りましょう。…… × × ×・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・クララは小箱の蓋に軽い接吻を与えて元の通りにしまいこんだ。淋しい花嫁の身じたくは静かな夜の中に淋しく終った。その中に心は段々落着いて力を得て行った。こんなに泣かれてはいよいよ家を逃れ出る時にはどうしたらいいだろうと思った床の中の心配は無用に・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・だからおまえの額に一度だけみんなで接吻するのを許しておくれ。なあ戸部いいだろう。戸部 よし、一度限り許してやる。花田 ともちゃんさよなら。とも子 さよなら花田さん。沢本 俺はまあやめとく。握手だけしとく。とも子 さ・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・しかしそれも退屈だと見えて、直ぐに飛び上がって手を広げて、赤い唇で春の空気に接吻して「まあ好い心持だ事」といった。 その時何と思ったか、犬は音のしないように娘の側へ這い寄ったと思うと、着物の裾を銜えて引っ張って裂いてしまって、直ぐに声も・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・これは西洋において、いやこの頃は、もっと近くで行るかも知れない……爪さきに接吻をしようとしたのではない。ものいう間もなし、お誓を引倒して、危難を避けさせようとして、且つ及ばなかったのである。 その草伏の小県の目に、お誓の姿が――峰を抽い・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・そして、ぼけの花が、真紅な唇でまりを接吻してくれました。「まりさん、どこへいままでいっていなさいました? みんなが、毎日、あなたを探していましたよ。」と、ぼけは、なつかしげにまりをながめていいました。 まりは、この地上のものを美しく・・・ 小川未明 「あるまりの一生」
・・・私は熱のため、頭痛がするのを床の上に起き直って、暗紫色にうまそうな水をたゝえた果物を頬につけたり接吻したりしました。 その時、丁度、珍らしくも、皆既食が、はじまったのでした。私は、わい/\人々が、戸外に出て語っているのを夢の中で聞くよう・・・ 小川未明 「果物の幻想」
出典:青空文庫