・・・ 女は袂の端を掴み、新派の女優めいた恰好で、ハンカチを振った。似合いの夫婦に見えた。 織田作之助 「秋深き」
・・・ そんな問答をくりかえしたあげく、掴み合いの喧嘩になった。運転手は車の修繕道具で彼の頭を撲った。割れて血が出た。彼は卒倒した。 運転手は驚いて、彼の重いからだを車の中へかかえ入れた。 そして天下茶屋のアパートの前へ車をつけると、・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・と胸のなかの苦痛をそのまま掴み出して相手に叩きつけたいような癇癪が吉田には起こって来るのだった。 しかし結局はそれも「不安や」「不安や」という弱々しい未練いっぱいの訴えとなって終わってしまうほかないので、それも考えてみれば未練とは言って・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ ひらめき渡る辰弥の目の中にある物は今躍り上りてこの機を掴みぬ。得たりとばかり膝を進めて取り出し示す草案の写しを、手に持ちながら舌は軽く、三好さん、これですが、しかしこれには褒美がつきますぜ。 善平は一も二もなく、心は半ば草案に奪わ・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・炉には枯枝一掴みくべあり。細き枝に蝋燭の焔ほどの火燃え移りてかわるがわる消えつ燃えつす。燃ゆる時は一間のうちしばらく明し。翁の影太く壁に映りて動き、煤けし壁に浮かびいずるは錦絵なり。幸助五六歳のころ妻の百合が里帰りして貰いきしその時粘りつけ・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 若い男は、一と握りの紙幣束を紙屑のようにポケットから掴みだしてみせた。そして、また、ルーブル相場がさがってきたと話した。「さがれゃ、さがって、こちとらは、物を高く売りつけりゃええだ。なに、かまうこっちゃねえだ」 呉清輝は、・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・彼等は、それを掴み出すと、空中に拡げて振った。彼等は、そういうもの以外のものを期待しているのだった。と、その間から、折り畳んだ紙片が、パラ/\とアンペラの上に落ちた。「うへえ!」 棚のローソクの灯の下で袋の口を切っていた一人は、突然・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・そしてあわただしげに右の手をずぼんの隠しに入れてありたけの貨幣を掴み出して、それを青年の手に渡した。「さあ、これを取って置け。お前はまだ年が若い。己よりはお前の方がまだこの世に用がありそうだ。」 青年は、貨幣を受け取って「難有う」と・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・それはほんとうにいい言葉のような気もするのであるが、そうして私も今その言葉を、はっきり掴みたいのであるが、あせると尚さら、その言葉が、するりするりと逃げ廻る。私は赤面して、無能者の如く、ぼんやり立ったままである。一片の愛国の詩も書けぬ。なん・・・ 太宰治 「鴎」
・・・でも、まあ、大みそか、お正月、百円くらい損してもいいから、一日もはやく現なま掴みたい心理、これは、私たちマゲモノ作家も、君たち、純文学者も変りない様子。よい初春が来るよう。萱野鉄平。」 月日。「先日、お母上様のお言いつけにより、・・・ 太宰治 「虚構の春」
出典:青空文庫