・・・彼女はその真実の父母の家にあれば、もっと幸福な運命を掴みえたかもしれないのであった。気の弱い彼女は、すべて古めかしい叔母の意思どおりにならせられてきた。「私の学校友だちは、みんないいところへ片づいていやはります」彼女はそんなことを考えな・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ 善ニョムさんは、片手を伸すと、一握りの肥料を掴みあげて片ッ方の団扇のような掌へ乗せて、指先で掻き廻しながら、鼻のところへ持っていってから、ポンともとのところへ投げた。「いい出来だ、これでお天気さえよきゃあ豊年だぞい」 善ニョム・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・ウィリアムは又内懐へ手を入れて胸の隠しの裏から何か書付の様なものを攫み出す。室の戸口まで行って横にさした鉄の棒の抜けはせぬかと振り動かして見る。締は大丈夫である。ウィリアムは丸机に倚って取り出した書付を徐ろに開く。紙か羊皮か慥かには見えぬが・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・私のようにどこか突き抜けたくっても突き抜ける訳にも行かず、何か掴みたくっても薬缶頭を掴むようにつるつるして焦燥れったくなったりする人が多分あるだろうと思うのです。もしあなたがたのうちですでに自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・ 私はポケットからありったけの金を攫み出して見せた。 もうこれ以上飲めないと思って、バーを切り上げて来たんだから、銀銅貨取り混ぜて七八十銭もあっただろう。「うん、余る位だ。ホラ電車賃だ」 そこで私は、十銭銀貨一つだけ残して、・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・すなわち攫者が面と小手(撃剣を着けて直球を攫み投者が正投を学びて今まで九球なりし者を四球に改めたるがごときこれなり。次にその遊技法につきて多少説明する所あるべし。○ベースボールに要するもの はおよそ千坪ばかりの平坦なる地面(芝生なら・・・ 正岡子規 「ベースボール」
・・・信州地方の風景的生活的特色、東京の裏町の生活気分を、対比してそれぞれを特徴において描こうとしているところ、又、主人公おふみの生きる姿の推移をその雰囲気で掴み、そこから描き出して行こうとしているところ、なかなか努力である。カメラのつかいかたを・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
・・・ 私の感想では、作者は葉子と共に、あの面、この面、と転々しつつ、遂に葉子の不幸の原因は掴み出すことが出来なかったように思える。葉子が自分の死の近いことを知った時、自分の二十六年の生涯を顧みて、それは間違いであった、だが、誰の罪だか分らな・・・ 宮本百合子 「「或る女」についてのノート」
・・・某が刀は違棚の下なる刀掛に掛けあり、手近なる所には何物も無之故、折しも五月の事なれば、燕子花を活けありたる唐金の花瓶を掴みて受留め、飛びしざりて刀を取り、抜合せ、ただ一打に相役を討果たし候。 かくて某は即時に伽羅の本木を買取り、杵築へ持・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
・・・ 花房は前へ出した両手の指のよごれたのを、屈めて広げて、人に掴み付きそうな風をして、佐藤に見せて笑っている。 佐藤が窓を締めて引っ込んでから、花房はゆっくり手を洗って診察室に這入った。 例の寝台の脚の処に、二十二三の櫛巻の女が、・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
出典:青空文庫