・・・それがこの三年以来の暑気だという東京の埃りの中で、藻掻き苦しんでいる彼には、好い皮肉であらねばならなかった。「いや、Kは暑を避けたんじゃあるまい。恐らくは小田を勿来関に避けたという訳さ」 斯う彼等の友達の一人が、Kが東京を発った後で・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ それは岩へ掻きついては波に持ってゆかれた恐ろしい努力を語るものだった。 暗礁に乗りあげた駆逐艦の残骸は、山へあがって見ると干潮時の遠い沖合に姿を現わしていることがあった。 梶井基次郎 「海 断片」
・・・そしてそれは凩に追われて、砂漠のような、そこでは影の生きている世界の遠くへ、だんだん姿を掻き消してゆくのであった。 堯はそれを見終わると、絶望に似た感情で窓を鎖しにかかる。もう夜を呼ぶばかりの凩に耳を澄ましていると、ある時はまだ電気も来・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・私も初めのうちは行きませんでしたがあまりたびたび言うので一度参りますると、一時間も二時間も止めて還さないで膝の上に抱き上げたり、頸にかじりついたり、頭の髪を丁寧に掻き下してなお可愛くなったとその柔らかな頬を無理に私の顔に押しつけたり、いろい・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・あたりを片付け鉄瓶に湯も沸らせ、火鉢も拭いてしまいたる女房おとま、片膝立てながら疎い歯の黄楊の櫛で邪見に頸足のそそけを掻き憮でている。両袖まくれてさすがに肉付の悪からぬ二の腕まで見ゆ。髪はこの手合にお定まりのようなお手製の櫛巻なれど、身だし・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・と云って、そこにあったストーヴを掻き廻す鉄のデレッキを振りあげた。母は真青になって帰ってきた。 この冬は本当に寒かったの。留置場でもストーヴの側の監房は少しはよかったが、そうでない処は坐ってその上に毛布をかけていても、膝がシン/\と・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・ マルは呻くような声を出しながら、主人の方へ忍んで来たが、やがて掻き付いて嬉しげに尻尾を振って見せた。この長く飼われた犬は、人の表情を読むことを知っていた。おせんが見えなく成った当座なぞは、家の内を探し歩いて、ツマラナイような顔付をして・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・三兄は、決してそのお仲間に加わらず、知らんふりして自分の席に坐って、凝ったグラスに葡萄酒をひとりで注いで颯っと呑みほし、それから大急ぎでごはんをすまして、ごゆっくり、と真面目にお辞儀して、もう掻き消すように、いなくなってしまいます。とても、・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・ 夫は、隣の部屋に電気をつけ、はあっはあっ、とすさまじく荒い呼吸をしながら、机の引出しや本箱の引出しをあけて掻きまわし、何やら捜している様子でしたが、やがて、どたりと畳に腰をおろして坐ったような物音が聞えまして、あとはただ、はあっはあっ・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・そこいらの漁師の神さんが鮪を料理するよりも鮮やかな手ぶりで一匹の海豹を解きほごすのであるが、その場面の中でこの動物の皮下に蓄積された真白な脂肪の厚い層を掻き取りかき落すところを見ていた時、この民族の生活のいかに乏しいものであるかということ、・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
出典:青空文庫