・・・ 僕等はちょうど京橋の擬宝珠の前に佇んでいた。人気のない夜更けの大根河岸には雪のつもった枯れ柳が一株、黒ぐろと澱んだ掘割りの水へ枝を垂らしているばかりだった。「日本だね、とにかくこう云う景色は。」 彼は僕と別れる前にしみじみこん・・・ 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・例へばつい半年ほど前には、石の擬宝珠のあつた京橋も、このごろでは、西洋風の橋に変つてゐる。そのために、東京の印象といふやうなものが、多少は話せないわけでもない。殊に、僕の如き出不精なものは、それだけ変化にも驚き易いから、幾分か話すたねも殖え・・・ 芥川竜之介 「東京に生れて」
・・・ 丹も見るかげがなくはげて、抜けかかった屋根がわらの上に擬宝珠の金がさみしそうに光っていた。縁には烏の糞が白く見えて、鰐口のほつれた紅白のひものもう色がさめたのにぶらりと長くさがったのがなんとなくうらがなしい。寺の内はしんとして人がいそ・・・ 芥川竜之介 「日光小品」
・・・ことにその橋の二、三が古日本の版画家によって、しばしばその構図に利用せられた青銅の擬宝珠をもって主要なる装飾としていた一事は自分をしていよいよ深くこれらの橋梁を愛せしめた。松江へ着いた日の薄暮雨にぬれて光る大橋の擬宝珠を、灰色を帯びた緑の水・・・ 芥川竜之介 「松江印象記」
・・・な燧打袋を腰に提げ、燈心を一束、片手に油差を持添え、揉烏帽子を頂いた、耳、ぼんの窪のはずれに、燈心はその十筋七筋の抜毛かと思う白髪を覗かせたが、あしなかの音をぴたりぴたりと寄って、半ば朽崩れた欄干の、擬宝珠を背に控えたが。 屈むが膝を抱・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 今年、四月八日、灌仏会に、お向うの遠藤さんと、家内と一所に、麹町六丁目、擬宝珠屋根に桃の影さす、真宝寺の花御堂に詣でた。寺内に閻魔堂がある。遠藤さんが扉を覗いて、袖で拝んで、「お釈迦様と、お閻魔さんとは、どういう関係があるんでしょ・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ 妙に心も更まって、しばらく何事も忘れて、御堂の階段を……あの大提灯の下を小さく上って、厳かな廂を……欄干に添って、廻廊を左へ、角の擬宝珠で留まって、何やら吻と一息ついて、零するまでもないが、しっとりとする帽子を脱いで、額を手布で、ぐい・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・矢張、江戸風な橋の欄干の上に青銅の擬宝珠があり、古い魚河岸があり、桟橋があり、近くに鰹節問屋、蒲鉾屋などが軒を並べていて、九月はじめのことであって見れば秋鯖なぞをかついだ肴屋がそのごちゃごちゃとした町中を往ったり来たりしているようなところで・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・その枝が聚まって、中が膨れ、上が尖がって欄干の擬宝珠か、筆の穂の水を含んだ形状をする。枝の悉くは丸い黄な葉を以て隙間なきまでに綴られているから、枝の重なる筆の穂は色の変る、面長な葡萄の珠で、穂の重なる林の態は葡萄の房の累々と連なる趣きがある・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫