・・・ということもないんだけど、君たちも、行かないかね、と心にも無い勧誘がふいと口から辷り出て、それからは騎虎の勢で、僕にね、五十円あるんだ、故郷の姉から貰ったのさ、これから、みんなで旅行に出ようよ、なに、仕度なんか要らない、そのままでいいじゃな・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
朝食の食卓で偶然箱根行の話が持上がって、大急ぎで支度をして東京駅にかけつけ、九時五十五分の網代行に間に合った。二月頃から、一度子供連れで熱海へでも行ってみようと云っていたが、日曜というと天気が悪かったり、天気がいいと思うと・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・ 私は支度を急がせた。 雪江は鏡台に向かって顔を作っていたが、やがて派手な晴衣を引っぴろげたまま、隣の家へ留守を頼みに行ったりした。ちょうど女中が見つかったところだったが、まだ来ていなかった。「叔父さんのお蔭で、二人いっしょに遊・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・もう夕方だから早く廻らないと、どこの家でも夕飯の仕度がすんでしまって間にあわなくなる。しきりに気はあせるが、天秤棒は肩にめりこみそうに痛いし、気持も重くなって足もはかどらない。しまいには涙がでてきて、桶ごとこんにゃくも何もおっぽりだしたくな・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・先生はお妾が食事の仕度をしてくれる時のみではない。長火鉢の傍にしょんぼりと坐って汚れた壁の上にその影を映させつつ、物静に男の着物を縫っている時、あるいはまた夜の寝床に先ず男を寝かした後、その身は静に男の羽織着物を畳んで角帯をその上に載せ、枕・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・八時の馬車はもう直ぐ、支度が出来ます」「うん、だから、八時前に悶着をかたづけて置こう。ひとまず引き取ってくれ」「へへへへ御緩っくり」「おい、行ってしまった」「行くのは当り前さ。君が行け行けと催促するからさ」「ハハハありゃ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・「だが、ダイの仕度は出来てるかい?」「どうだか。見張りで聞いて来らあ」「いや、構わねえ。お前、機械を片附けといて呉れよ。俺が仕度して来るから」「そうかい」 秋山は見張りへ、小林は鑿を担いで鍛冶小屋へ、それぞれ捲上の線に添・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・「あッちじゃアもう支度をしてるのかい」「はい。西宮さんはちッともお臥らないで、こなたの……」と、言い過ぎようとして気がついたらしく、お梅は言葉を切ッた。「そうか。気の毒だッたなア。さア行こう」 吉里はなお帯を放さぬ。「ま・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・旅費の多き旅行なれば、千里の路も即日の支度にて出立すれども、子を育するに不便利なりとて、一夕の思案を費やして進退を考えたる者あるを聞かず。家を移すに豆腐屋と酒屋の遠近をば念を入れて吟味し、あるいは近来の流行にて空気の良否など少しく詮索する様・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・救助係に私は今日は少しのお礼をしようと思ってその支度もして来たのでしたがその人はいつもの処に見えませんでした。私たちはまっすぐにそのイギリス海岸を昨日の処に行きました。それからていねいにあのあやしい化石を掘りはじめました。気がついてみると、・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
出典:青空文庫