・・・アーサーは覚えず抑えたる手を放す。折から廻廊を遠く人の踏む音がして、罵る如き幾多の声は次第にアーサーの室に逼る。 入口に掛けたる厚き幕は総に絞らず。長く垂れて床をかくす。かの足音の戸の近くしばらくとまる時、垂れたる幕を二つに裂いて、髪多・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・と圭さん、手拭の一端を放すや否や、ざぶんと温泉の中へ、石のように大きな背中を落す。満槽の湯は一度に面喰って、槽の底から大恐惶を持ち上げる。ざあっざあっと音がして、流しへ溢れだす。「ああいい心持ちだ」と圭さんは波のなかで云った。「なる・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・なれども健かな二本の脚を、何面白いこともないに、捩って折って放すとは、何という浅間しい人間の心じゃ。」「放されましても二本の脚を折られてどうしてまあすぐ飛べましょう。あの萱原の中に落ちてひいひい泣いていたのでございます。それでも昼の間は・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・体の肥って丸い、髪をぐるぐる巻にした私は、ドン・キホーテのところへと憐れに取急ぐサンチョ・パンザのように、瘠せて、脊高く勇ましい彼女に向って駆けつけるのだ――フダーヤは始めから釣れた魚を放すバケツは持ってゆかない。何故なら、彼女は賢くて、い・・・ 宮本百合子 「この夏」
・・・ せっかく平和に戦後の生活を建設しようと努力している世界の人々を、強大な破壊力をもった新兵器をつくり出して、気にいらなければいつでもそれをぶっ放すぞという風におどかしている者があるとすれば、そのような狂気こそ世界の人類の理性の力で、・・・ 宮本百合子 「願いは一つにまとめて」
・・・それを見てからは、小川は暗示を受けたように目をその壁から放すことが出来ない。「や。あの裂けた紅唐紙の切れのぶら下っている下は、一面の粟稈だ。その上に長い髪をうねらせて、浅葱色の着物の前が開いて、鼠色によごれた肌着が皺くちゃになって、あいつが・・・ 森鴎外 「鼠坂」
・・・――この時、突然私を捕えて私の心を急用から引き放すものがあった。私は坂の上に見える深い空をながめた。小径を両側から覆うている松の姿をながめた。何という微妙な光がすべての物を包んでいることだろう。私は急に目覚めた心持ちであたりを見回した。私の・・・ 和辻哲郎 「創作の心理について」
出典:青空文庫