・・・達雄は場末のカフェのテエブルに妙子の手紙の封を切るのです。窓の外の空は雨になっている。達雄は放心したようにじっと手紙を見つめている。何だかその行の間に妙子の西洋間が見えるような気がする。ピアノの蓋に電燈の映った「わたしたちの巣」が見えるよう・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・ 受話器を置いた陳彩は、まるで放心したように、しばらくは黙然と坐っていた。が、やがて置き時計の針を見ると、半ば機械的にベルの鈕を押した。 書記の今西はその響に応じて、心もち明けた戸の後から、痩せた半身をさし延ばした。「今西君。鄭・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 煙客翁はまるで放心したように、いつまでもこの画を見入っていました。が、画は見ていれば見ているほど、ますます神妙を加えて行きます。「いかがです? お気に入りましたか?」 主人は微笑を含みながら、斜に翁の顔を眺めました。「神品・・・ 芥川竜之介 「秋山図」
・・・それ以来かれこれ半年ばかりは、ほとんど放心同様な月日さえ送らなければならなかったのです。「その悲しみが薄らいだ時、まず女の心に浮んだのは、捨てた長男に会う事です。「もしあの子が達者だったら、どんなに苦しい事があっても、手もとへ引き取って・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・私は思わず、友人の肘をとらえたなり、放心したように往来へ立ちすくんでしまいました。その時、外濠線の電車が、駿河台の方から、坂を下りて来て、けたたましい音を立てながら、私の目の前をふさいだのは、全く神明の冥助とでも云うものでございましょう。私・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・ 渠は前途に向かいて着眼の鋭く、細かに、きびしきほど、背後には全く放心せるもののごとし。いかんとなれば背後はすでにいったんわが眼に検察して、異状なしと認めてこれを放免したるものなればなり。 兇徒あり、白刃を揮いて背後より渠を刺さんか・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・それほど放心した歩き方だったのでしょう。腹は空ってくる。おまけに暑さにあてられて、目まいがする。そんな時、道端の百姓家へ泣きこんで事情を打ち明けると、食事を恵んでくれる親切なお内儀さんもありました。が、しまいにはもうそれもできなかった。とい・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・自分もまたその一人かと、新吉の自嘲めいた感傷も、しかしふと遠い想いのように、放心の底をちらとよぎったに過ぎなかった。 ただ、ぼんやりと坐っていた。うとうとしていたのかも知れない。電車のはいって来た音も夢のように聴いていた。一瞬あたりが明・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・何かしら思い詰めているのか放心して仮面のような虚しさに蒼ざめていた顔が、瞬間カッと血の色を泛べて、ただごとでない激しさであった。 迷いもせず一途に1の数字を追うて行く買い方は、行き当りばったりに思案を変えて行く人々の狂気を遠くはなれてい・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・しかし、話はしようとせず、とろんと疲れた眼を放心したように硝子扉の方へ向けていたが、やがて想いがまとまったのか、書きはじめたが、二行ばかり書くと、すぐ消して、紙をまるめてしまった。 そして、新しい紙にへのへのもへのを書きながら、「書・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
出典:青空文庫