・・・風はひとしおさすらいの身に沁み渡り、うたた脾肉の歎に耐えないのであったが、これも身から出た錆と思えば、落魄の身の誰を怨まん者もなく、南京虫と虱に悩まされ、濁酒と唐辛子を舐めずりながら、温突から温突へと放浪した。 しかし、空拳と無芸では更・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・武田さんが新進作家時代、大阪を放浪していた頃の話だという。 昭和十五年の五月、私が麹町の武田さんの家をはじめて訪問した時、二階の八畳の部屋の片隅に蒲団を引きっぱなして、枕の上に大きな顎をのせて腹ばいのまま仕事していた武田さんはむっくり起・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・二 早くから両親を失い家をなくしてしまった私は、親戚の家を居候して歩いたり下宿やアパートを転々と変えたりして来たためか、天涯孤独の身が放浪に馴染み易く、毎夜の大阪の盛り場歩きもふと放浪者じみていたので、自然心斎橋筋や道頓堀界・・・ 織田作之助 「世相」
・・・それから自分は放浪の旅に出る。 仙台行きには、おせいもむろん反対だった。そのことでは「蠢くもの」時分よりもいっそう険悪な啀み合いを、毎晩のように自分は繰返した。彼女の顔にも頭にも生疵が絶えなかった。自分も生爪を剥いだり、銚子を床の間に叩・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・僕も後から国へ帰るか、それとも西の方へ放浪にでも出かけるか、どっちにしても先きにFを国へ帰しておきたいから……」「いやそういうわけでしたらなんですけど、三月といってももうじきですからね、Fさんが中学に入りさえすれば、また私たちの方で預っ・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・当もない放浪の旅の身の私には、ほんとに彼らの幸福そうな生活が、羨ましかった。彼らの美しい恋のロマンスに聴き入って、私はしばしば涙を誘われた。私はいつまでもいつまでも彼らのそばで暮したいと思った。が私にはそうしてもいられない事情があった。・・・ 葛西善蔵 「遊動円木」
・・・「元来僕はね、一度友達に図星を指されたことがあるんだが、放浪、家をなさないという質に生まれついているらしいんです。その友達というのは手相を見る男で、それも西洋流の手相を見る男で、僕の手相を見たとき、君の手にはソロモンの十字架がある。それ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・そして見ると河田翁その人の脈みゃくらくには、『放浪』の血が流れているのではないか。それが敬太郎へも流れこんだのではないか。 石井翁はむろんこういうことを考えて研究もせず、ただ気の毒がる仲間の一人ゆえ、どうにかして今の境遇も聞いてみたいと・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・ひとりの不幸な男が、放浪生活中、とあるいぶせき農家の庭で、この世のものでないと思われるほどの美少女に逢った物語であった。そして、その男の態度は、あくまでも立派であり、英雄的でさえあったのである。私は、これに依って、ひそかに私自身の大失敗をな・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・ら、と言って、おまわりの呼びとめるのも聞かず、すたすたと川のほうに歩いて行き、どうせもう、いつかは私は追い出すつもりでいたのでしょうし、とても永くは居られない家なのだから、きょうを限り、またひとり者の放浪の生活だと覚悟して、橋の欄干によりか・・・ 太宰治 「男女同権」
出典:青空文庫