・・・しかしもし地形図なしで、これだけの概念を得ようとしたら、おそらく一生を放浪の旅に消耗しなければなるまい。 この夏信州星野温泉から小瀬温泉まで散歩したとき途中で道の別れるところに一人若い男が休んでいたので、小瀬へはこちらでいいかと聞くと、・・・ 寺田寅彦 「地図をながめて」
・・・そして病後の体を抱いて、この辺をむだに放浪していた、そのころの痩せこけた寂しい姿が痛ましく目に浮かんできた。今の桂三郎のような温良な気分は、どこにも見出せなかった。彼のような幸福な人間では、けっしてなかった。 私はその温泉場で長いあいだ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・諸所放浪しているうちに、或日、或時、或村へ差しかかると、しきりに腹が減る。幸ひっそりとした一構えに、人の気はいもない様子を見届けて、麺麭と葡萄酒を盗み出して、口腹の慾を充分充たした上、村外れへ出ると、眠くなって、うとうとしている所へ、村の女・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・国内戦時代のことで、そのような悪童的な放浪の道はたまたま赤軍の装甲列車にぶつかり、そこで汽鑵たき助手などやることがあったりした。そのサーニが、臓品分配のことから刃傷沙汰を起し、半殺しの目にあってシベリアの雪の中に倒れていたところを、その地元・・・ 宮本百合子 「作品のテーマと人生のテーマ」
・・・などによってこの数年来思想的放浪に置かれた知識階級の良心の支柱となり得るかのような作品の居住居を示して来たこの作家は、「生活の探求」に到って一つの転回を示した。これは、都会の大学に苦学的な学生生活を営んでいた駿介という主人公の青年が、都会の・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・ 放浪の詩情こそ、そのひとの文学の一管の笛である、という抒情的評価をかち得ているある作家は、日本の小市民の生活につきまとううらぶれとあてどない人生への郷愁の上に財をつんだ。そして、男の子を貰い、学習院に入学させている。「あすこは父兄が、・・・ 宮本百合子 「戦争はわたしたちからすべてを奪う」
・・・そこを出て、一九〇〇年代がはじまったばかり――ゴーリキーがそろそろ小説家として働きはじめる頃のロシアのどこかを放浪していた時分、まだチェホフが生きていた。チェホフもメイエルホリドの才能は感じていたと見える。誰かにあてた手紙の中に、チェホフら・・・ 宮本百合子 「ソヴェトの芝居」
・・・自分たちの祖国のせまくとも誇りあるべき土の上に、浮浪児や失業者や体を売って生きる女性群を放浪させながら、少数のものが自覚のおそい日本人民の統治しやすさについて談笑しながら彼等の国際的なハイボールを傾ける姿を、わたしたち日本の女は、やはり黙っ・・・ 宮本百合子 「それらの国々でも」
・・・Gorki は放浪生活にあこがれた作ばかりをしていて、社会の秩序を踏み附けている。これも危険である。それに実生活の上でも、籍を社会党に置いている。Artzibaschew は個人主義の元祖 Stirner を崇拝していて、革命家を主人公にし・・・ 森鴎外 「沈黙の塔」
・・・辰敬自身は、青年時代以来諸国を放浪して歩いたが、その間に、「力を以て事をなすは下の人、心を働かして心にて事をなすは上の人」と悟ったのである。悟ってみると父の教訓がしみじみと思い出されて来る。で、心を正直に持ち、ついに身を立てることができたの・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫