・・・正純も弓矢の故実だけは聊かわきまえたつもりでおります。直之の首は一つ首でもあり、目を見開いておればこそ、御実検をお断り申し上げました。それを強いてお目通りへ持って参れと御意なさるのはその好い証拠ではございませぬか?」 家康は花鳥の襖越し・・・ 芥川竜之介 「古千屋」
・・・ 県社の神官に、故実の詳しいのがあって、神燈を調え、供饌を捧げた。 島には鎌倉殿の定紋ついた帷幕を引繞らして、威儀を正した夥多の神官が詰めた。紫玉は、さきほどからここに控えたのである。 あの、底知れずの水に浮いた御幣は、やがて壇・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・室に付随した歴史や故実などはベデカによらなければ全くわからないが、窓のながめのよしあしぐらいは自分の目で見つけ出し選択する自由を許してもらいたいような気もした。 ベデカというものがなかった時の不自由は想像のほかであろうが、しかしまれには・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・太い雌芯の先に濃くその花粉がついて、自然の営みをしているが、剪られた花故実を結ぶこともならない。空しき過剰という心持がしなくもなく、さしずめ悩ましき春らしい一つの眺めとも云うべきか、今頃から桜が散るまで私は毎年余り愉快に暮すことが出来ない。・・・ 宮本百合子 「塵埃、空、花」
国文学というものは、云わばこれから本当の生きた研究がされるのではないだろうか。旧来の国文学は専門家の間にどこまでも鑑賞、故実穿鑿の態度で持ち来されていて、推移する文化の科学的な足どりとは自身の研究の方法を一致させていなかっ・・・ 宮本百合子 「若い世代のための日本古典研究」
・・・歌の中に五助としてあるから、二重に名を書かなくてもよいと、すなおに考えたのが、自然に故実にかなっていた。 もうこれで何も手落ちはないと思った五助は「松野様、お頼み申します」と言って、安座して肌をくつろげた。そして犬の血のついたままの脇差・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・これを読んで伊勢貞丈の故実の書等に及べば、大抵貸本文学卒業と云うことになる。わたくしはこの卒業者になった。 わたくしは初め馬琴に心酔して、次で馬琴よりは京伝を好くようになり、また春水、金水を読み比べては、初から春水を好いた。丁度後にドイ・・・ 森鴎外 「細木香以」
出典:青空文庫