・・・途端に恐ろしい敏捷さで東坡巾先生は突と出て自分の手からそれを打落して、やや慌て気味で、飛んでもない、そんなものを口にして成るものですか、と叱するがごとくに制止した。自分は呆れて驚いた。 先生の言によると、それはタムシ草と云って、その葉や・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・ 警告すると、少年は慌てて向直ったが早いか敏捷に巧い機に竿を上げた。かなり重い魚であったが、引上げるとそれは大きな鮒であった。小さい畚にそれを入れて、川柳の細い枝を折取って跳出さぬように押え蔽った少年は、その手を小草でふきながら予の方を・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・日本の山椒魚は、あのヤマメという魚を食っているのですが、どうしてあんな敏捷な魚をとって食えるか、不思議なくらいであります。それにはあの山椒魚の皮膚の色がたいへん役立っているようであります。かれが谷川の岩の下に静かに身を沈めていると、泥だか何・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・こんな奴に、ばかにされてたまるか、という野蛮な、動物的な格闘意識が勃然と目ざめ、とかく怯弱な私を、そんなにも敏捷に、ほとんど奇蹟的なくらい頑強に行動させた。佐伯は尚も、のがれようとしてもがいた。「坐り給え。」私は彼を無理矢理、椅子に坐ら・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・ 外濠の電車が来たのでかれは乗った。敏捷な眼はすぐ美しい着物の色を求めたが、あいにくそれにはかれの願いを満足させるようなものは乗っておらなかった。けれど電車に乗ったということだけで心が落ちついて、これからが――家に帰るまでが、自分の極楽・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・あの敏捷さがわれわれの驚嘆の的になるが、彼はまさに前記の侏儒国の住民であるのかもしれない。 象が何百年生きても彼らの「秒」が長いのであったら、必ずしも長寿とは言われないかもしれない。「秒」の長さは必ずしも身長だけでは計られないであろ・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・しかし外国人の事と云えば、これを紹介し祖述する事に敏捷な人々の多い世の中に、津田君の画を紹介しようとする人の少ないのは不思議である。遂に自分のようなものでも差し出口をきかなければならないような事になるのはどういう訳であろう。 ここまで書・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
・・・複雑な環境の変化に適応せんとする不断の意識的ないし無意識的努力はその環境に対する観察の精微と敏捷を招致し養成するわけである。同時にまた自然の驚異の奥行きと神秘の深さに対する感覚を助長する結果にもなるはずである。自然の神秘とその威力を知ること・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・庭で遊んでいる時でもこっちがきじ毛よりずっと敏捷で活発だという事であった。猫の子でもやっぱり兄弟の間でいろんな個性の相違があるものかと、私には珍しくおもしろく感ぜられた。猫などは十匹が十匹毛色はちがっても性質の相違などはないもののようにぼん・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・ 話が興味の中心に近いて来ると、いつでも爺さんは突然調子を変え、思いもかけない無用なチャリを入れてそれをば聞手の群集から金を集める前提にするのであるが、物馴れた敏捷な聞手は早くも気勢を洞察して、半開きにした爺さんの扇子がその鼻先へと差出・・・ 永井荷風 「伝通院」
出典:青空文庫