・・・巌本氏は清教徒的の見地から、文学を考えているような人だったから、純文芸に向おうとするものは、意見の合わないような処が出来て来た。星野君の家は日本橋本町四丁目の角にあった砂糖問屋で、男三郎君というシッカリした弟があり、おゆうさんという妹もあり・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・新調のその船の名は、細胞文芸、井伏鱒二、林房雄、久野豊彦、崎山兄弟、舟橋聖一、藤田郁義、井上幸次郎、その他数氏、未だほとんど無名にして、それぞれ、辻馬車、鷲の巣、十字街、青空、驢馬、等々の同人雑誌の選手なりしを手紙で頼んで、小説の原稿もらい・・・ 太宰治 「喝采」
・・・場合によっては芸術を愛する事が科学者としての堕落であり、また恥辱であるように考えている人もあり、あるいは文芸という言葉からすぐに不道徳を連想する潔癖家さえまれにはあるように思われる。 科学者の天地と芸術家の世界とはそれほど相いれぬもので・・・ 寺田寅彦 「科学者と芸術家」
・・・ 小野は三吉より三つ年上で、郵便配達夫、煙草職工、中年から文選工になった男で、小学三年までで、図書館で独学し、大正七年の米暴動の年に、津田や三吉をひきいて「熊本文芸思想青年会」を独自に起した、地方には珍らしい人物であった。三吉は彼にクロ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・『たけくらべ』が『文芸倶楽部』第二巻第四号に、『今戸心中』が同じく第二巻の第八号に掲載せられたその翌年である。 当時遊里の周囲は、浅草公園に向う南側千束町三丁目を除いて、その他の三方にはむかしのままの水田や竹藪や古池などが残っていたので・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・が、名が教育会であるし、引受ける私は文学に関係あるものであるから、教育と文芸という事にするが能いと思いまして、こういう題にしました。この教育と文芸というのは、諸君が主であるからまげて教育をさきとしたのであります。 よく誤解される事があり・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・且つ彼はそのエッセイにも、ニイチェの標題をそのままイミテートして「文芸的な、あまりに文芸的な」と書いた。特に「歯車」と「西方の人」の中には、ニイチェが非常に著るしく現れて居り、死を直前に凝視してゐたこの作者が、如何に深くニイチェに傾倒して居・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
宮本顕治には、これまで四冊の文芸評論集がある。『レーニン主義文学闘争への道』『文芸評論』『敗北の文学』『人民の文学』。治安維持法と戦争との長い年月の間はじめの二冊の文芸評論集は発禁になっていた。著者が十二年間の獄中生活から・・・ 宮本百合子 「巖の花」
・・・ 木村は座布団の側にある日出新聞を取り上げて、空虚にしてある机の上に広げて、七面の処を開ける。文芸欄のある処である。 朝日の灰の翻れるのを、机の向うへ吹き落しながら読む。顔はやはり晴々としている。 唐紙のあっちからは、はたきと箒・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・自然美を十分に味わうべきこと、文芸を心の糧とすべきこと、その文芸も『万葉集』、『源氏物語』のごとき古典に親しむべきこと、連歌や歌の判のことなども心得べきこと、などを説いた後に、実践の問題に立ち入って、人を見る明が何よりも大切であることを教え・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫