・・・…… ――――――――――――――――――――――――― 岩とも泥とも見当のつかぬ、灰色をなすった断崖は高だかと曇天に聳えている。そのまた断崖のてっぺんは草とも木とも見当のつかぬ、白茶けた緑を煙らせている。保吉は・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・と道の中へ衝と出た、人の飛ぶ足より疾く、黒煙は幅を拡げ、屏風を立てて、千仭の断崖を切立てたように聳った。「火事だぞ。」「あら、大変。」「大いよ!」 火事だ火事だと、男も女も口々に――「やあ、馬鹿々々。何だ、そんな体で、引・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・高嶽の絶頂は噴火口から吐き出す水蒸気が凝って白くなっていたがそのほかは満山ほとんど雪を見ないで、ただ枯れ草白く風にそよぎ、焼け土のあるいは赤きあるいは黒きが旧噴火口の名残をかしこここに止めて断崖をなし、その荒涼たる、光景は、筆も口もかなわな・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・と断崖から取って投げたように言って、中村は豪然として威張った。 若崎は勃然として、「知れたことサ。」と見かえした。身体中に神経がピンと緊しく張ったでもあるように思われて、円味のあるキンキン声はその音ででも有るかと聞えた。しか・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・様様の色をしたひらたい岩で畳まれ、その片側の傾斜がゆるく流れて隣の小さくとがった峯へ伸び、もう一方の側の傾斜は、けわしい断崖をなしてその峯の中腹あたりにまで滑り落ち、それからまたふくらみがむくむく起って、ひろい丘になっている。断崖と丘の硲か・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・すぐ足もとから百丈もの断崖になっていて、深い朝霧の奥底に海がゆらゆらうごいていた。「いい景色でしょう?」 雪は、晴れやかに微笑みつつ、胸を張って空気を吸いこんだ。 私は、雪を押した。「あ!」 口を小さくあけて、嬰児のよう・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・私は、衣食住に於いては吝嗇なので、百円以上も投じて洋装を整えるくらいなら、いっそわが身を断崖から怒濤めがけて投じたほうが、ましなような気がするのである。いちど、N氏の出版記念会の時、その時には、私には着ている丹前の他には、一枚の着物も無かっ・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・ある地点では車の窓から見下ろされる断崖の高さが六百尺だといって女車掌が紹介する。それが六百尺であることがあたかもその車掌のせいででもあるかのように、何となく得意気に聞こえて面白い。 近在の人らしい両親に連れられた十歳くらいの水兵服の女の・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・ チベットには、月を追っかけて、断崖から落っこって死んだ人間がある。ということを聞いた。 日本では、囚人や社会主義者、無政府主義者を、地震に委せるんだね。地震で時の流れを押し止めるんだ。 ジャッガーノート! 赤ん坊の手を捻る・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・道皆海に沿うたる断崖の上にありて眺望いわん方なし。 浪ぎはへ蔦はひ下りる十余丈 根府川近辺は蜜柑の名所なり。 皮剥けば青けむり立つ蜜柑かな 石橋山の麓を過ぐ頼朝の隠れし処もかなたの山にありと人のいえど日已に傾むきかか・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
出典:青空文庫