・・・ と婆さんは振返って、やや日脚の遠退いた座を立って、程過ぎて秋の暮方の冷たそうな座蒲団を見遣りながら、「ねえ、旦那様、あすこに坐っておりましたが、風立ちもいたしませず、障子に音もございません、穏かな日なんですもの。(変じゃあない・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ かかる群集の動揺む下に、冷然たる線路は、日脚に薄暗く沈んで、いまに鯊が釣れるから待て、と大都市の泥海に、入江のごとく彎曲しつつ、伸々と静まり返って、その癖底光のする歯の土手を見せて、冷笑う。 赤帽の言葉を善意に解するにつけても、い・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 大空のどこか、吻と呼吸を吐く状に吹散らして、雲切れがした様子は、そのまま晴上りそうに見えるが、淡く濡れた日脚の根が定まらず、ふわふわ気紛れに暗くなるから……また直きに降って来そうにも思われる。 すっかり雨支度でいるのもあるし、雪駄・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・ 秋も深くなって、日脚は短くなりました。かれこれするうちに、はや、晩方となりますので、あちらで、豆腐屋のらっぱの音がきこえると、お母さんの心は、ますますせいたのでありました。 ちくちくと、縫っていられますうちに、糸が短くなって糸の先・・・ 小川未明 「赤い実」
・・・ オン、ア、ラ、ハ、シャ、ナウ 高い窓から入ってくる日脚の落ち場所が、見ていると順々に変って行って――秋がやってきた。運動から帰ってきて、扉の金具にさわってみると、鉄の冷たさがヒンヤリと指先きにくるようになった。・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ 初秋の日脚は、うそ寒く、遠い国の方へ傾いて、淋しい山里の空気が、心細い夕暮れを促がすなかに、かあんかあんと鉄を打つ音がする。「聞えるだろう」と圭さんが云う。「うん」と碌さんは答えたぎり黙然としている。隣りの部屋で何だか二人しき・・・ 夏目漱石 「二百十日」
出典:青空文庫