・・・彼はただ、春風の底に一脈の氷冷の気を感じて、何となく不愉快になっただけである。 しかし、内蔵助の笑わなかったのは、格別二人の注意を惹かなかったらしい。いや、人の好い藤左衛門の如きは、彼自身にとってこの話が興味あるように、内蔵助にとっても・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・黄塵とは蒙古の春風の北京へ運んで来る砂埃りである。「順天時報」の記事によれば、当日の黄塵は十数年来未だ嘗見ないところであり、「五歩の外に正陽門を仰ぐも、すでに門楼を見るべからず」と言うのであるから、よほど烈しかったのに違いない。然るに半三郎・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・が、簾の外の往来が、目まぐるしく動くのに引換えて、ここでは、甕でも瓶子でも、皆赭ちゃけた土器の肌をのどかな春風に吹かせながら、百年も昔からそうしていたように、ひっそりかんと静まっている。どうやらこの家の棟ばかりは、燕さえも巣を食わないらしい・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・ それから一月ばかりの後、そろそろ春風が動きだしたのを潮に、私は独り南方へ、旅をすることになりました。そこで翁にその話をすると、「ではちょうど好い機会だから、秋山を尋ねてご覧なさい。あれがもう一度世に出れば、画苑の慶事ですよ」と言う・・・ 芥川竜之介 「秋山図」
・・・すると窓から流れこんだ春風が、その一枚のレタア・ペエパアを飜して、鬱金木綿の蔽いをかけた鏡が二つ並んでいる梯子段の下まで吹き落してしまった。下にいる女髪結は、頻々としてお君さんの手に落ちる艶書のある事を心得ている。だからこの桃色をした紙も、・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・ 世間は、春風に大きく暖く吹かるる中を、一人陰になって霜げながら、貧しい場末の町端から、山裾の浅い谿に、小流の畝々と、次第高に、何ヶ寺も皆日蓮宗の寺が続いて、天満宮、清正公、弁財天、鬼子母神、七面大明神、妙見宮、寺々に祭った神仏を、日課・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・冬籠の窓が開いて、軒、廂の雪がこいが除れると、北風に轟々と鳴通した荒海の浪の響も、春風の音にかわって、梅、桜、椿、山吹、桃も李も一斉に開いて、女たちの眉、唇、裾八口の色も皆花のように、はらりと咲く。羽子も手鞠もこの頃から。で、追羽子の音、手・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・人形使 何の貴女様、この疼痛は、酔った顔をそよりそよりと春風に吹かれますも、観音様に柳の枝から甘露を含めて頂きますも、同じ嬉しさでござります。……はたで見ます唯今の、美女でもって夜叉羅刹のような奥方様のお姿は、老耄の目には天人、女神をそ・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・緑色の空は、円やかに頭の上に懸かって、遠く地平線のかなたへ垂れ下がっています。春風は、遠くから吹いて、遠くへ去っていきます。百姓が愉快そうに働いています。お姫さまは、なにを見ても珍しく、心も、身ものびのびとなされました。「ああ、世の中と・・・ 小川未明 「お姫さまと乞食の女」
・・・ いま私は陣々たる春風に顔を吹かせて、露台に立っています。 そして水盤の愛する赤い石をながめながら我が死後、幾何の間、石はこのままの姿を存するであろうかと空想するのでした。 するとこの松は如何、この蘭は如何という風にすべて生命あ・・・ 小川未明 「春風遍し」
出典:青空文庫