・・・ そこは入り込んだ町で、昼間でも人通りは少なく、魚の腹綿や鼠の死骸は幾日も位置を動かなかった。両側の家々はなにか荒廃していた。自然力の風化して行くあとが見えた。紅殻が古びてい、荒壁の塀は崩れ、人びとはそのなかで古手拭のように無気力な生活・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・親父も弁公も昼間の激しい労働で熟睡したが文公は熱と咳とで終夜苦しめられ、明け方近くなってやっと寝入った。 短夜の明けやすく、四時半には弁公引き窓をあけて飯をたきはじめた。親父もまもなく起きて身じたくをする。 飯ができるや、まず弁公は・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・このあいだ、昼間があまり忙しいので、夜なべに蕎麦をこなしたのだと母は話している。 祖父も百姓だった。その祖父も、その前の祖父も百姓だったらしい。その間、時には、田畑を売ったこともあり、また買ったこともあるようだ。家を焼かれてひどく困った・・・ 黒島伝治 「小豆島」
・・・それも昼間は通船も多いし、漁も利かぬから夜縄で捕るのである。此等の船は隅田川へ入って来て、適宜の場所へ夜泊して仕事をして居る。斯ういうように遠くから出掛けて来るということは誠に結構なことで、これが益々盛になれば自然日本の漁夫も遠洋漁業などと・・・ 幸田露伴 「夜の隅田川」
・・・部屋に居て聞くと、よく蛙が鳴いた。昼間でも鳴いた。その声は男ざかりの時分の旦那の方へも、遠い旅から年をとって帰って来た旦那の方へもおげんの心を誘った。彼女が小山の家を出ようと思い立ったのは、必ずしも老年の今日に始まったことではなかった。旦那・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・私は夜、いつも全く眼をさましている。昼間、みんなの見ている前で、少し眠る。 私は誰にも知られずに狂い、やがて誰にも知られずに直っていた。 それよりもまだ小さかった頃のこと。麦畑の麦の穂のうねりを見るたびごとに思い出す・・・ 太宰治 「玩具」
・・・ 年のころ三十七、八、猫背で、獅子鼻で、反歯で、色が浅黒くッて、頬髯が煩さそうに顔の半面を蔽って、ちょっと見ると恐ろしい容貌、若い女などは昼間出逢っても気味悪く思うほどだが、それにも似合わず、眼には柔和なやさしいところがあって、絶えず何・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ 嵐の前の宵、客のない暗い二階の欄干に凭れて沖を見ていた。昼間から怪しかった雲足はいよいよ早くなって、北へ北へと飛ぶ。夕映えの色も常に異なった暗黄色を帯びて物凄いと思う間に、それも消えて、暮れかかる濃鼠の空を、ちぎれちぎれの綿雲は悪夢の・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・「ここもいいけれど、昼間は少し暗い」道太はそう言ってちょっと直しさえすれば、ぐっと引き立ってくるだろうと、そんな話をしかけた。「そんなことも考えるけれど、私のものでもないんですから」「誰のものなんだ」「いったん人手に渡ったの・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ わたしが昼間は外国語学校で支那語を学び、夜はないしょで寄席へ通う頃、唖々子は第一高等学校の第一部第二年生で、既に初の一カ年を校内の寄宿舎に送った後、飯田町三丁目黐の木坂下向側の先考如苞翁の家から毎日のように一番町なるわたしの家へ遊びに・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
出典:青空文庫