一 涼しさと暑さ この夏は毎日のように実験室で油の蒸餾の番人をして暮らした。昔の武士の中の変人達が酷暑の時候にドテラを着込んで火鉢を囲んで寒い寒いと云ったという話があるが、暑中に烈火の前に立って油の煮える・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・の草木が美しく、それに戸外が寒くなくていい時候に、室内の「死んだ自然」と首っ引きをするのももったいないような気がした。静物ないし自画像などは寒い時のために保留するというような気もあって、暖かいうちはなるべく題材を戸外に求める事に自然となって・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・それが寒い時候にはいつでも袖無しの道服を着て庭の日向の椅子に腰をかけていながら片手に長い杖を布切れで巻いたのを持って、そうしていつまでもじっとしたままで小半日ぐらいのあいだ坊主頭を日に照らしていた。あたまの上にはたいてい蠅が一匹ぐらいとまっ・・・ 寺田寅彦 「ステッキ」
・・・それと共に四季折々の時候に従って俳諧的詩趣を覚えさせる野菜魚介の撰択に通暁している。それにもかかわらず私はもともと賤しい家業をした身体ですからと、万事に謙譲であって、いかほど家庭をよく修め男に満足と幸福を与えたからとて、露ほどもそれを己れの・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・の皮下注射方もっとも適当にして、医師も常にこの方に依頼して一時の急に応ずといえども、その劇痛のよって来る所の原因を求めたらば、あるいは全身の貧血、神経の過敏をいたし、時候寒暑等の近因に誘われて、とみに神経痛を発したるものもあらん。全身の貧血・・・ 福沢諭吉 「政事と教育と分離すべし」
・・・ 自分の前に座った此家の主婦が、あまりにいつ見ても年を喰わないのにびっくりした栄蔵は、一寸行きつまりながら、低いつぶやく様な声で、時候の挨拶、無沙汰の云い訳けをし、つけ加えてお君の詫までした。 主婦は、気軽に、お君の身のきまったよろ・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
時候あたりだろうと云って居た宮部の加減は、よくなるどころか却って熱なども段々上り気味になって来た。 地体夏に弱い上に、此の間どうしたのか頭の工合を悪くして三日ほど床について居た揚句にたべたかつおの刺身がさわったのだと云・・・ 宮本百合子 「黒馬車」
・・・今の時候で見ると大変暑苦しいようであるがなかなか濃厚で面白い、但この作品で画家は極めて自然発生的に自身のもちものを出しているだけですが。今私はゴーリキイと知識人とのこと、又女のこと等面白い研究をかいています。 七月十六日 〔市ヶ谷刑・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・それは、私が其処に現れた時候と時間とによった。私は、顔の正面から日光に照りつけられては、半丁も楽に歩けないので、時に応じて日かげの側が選ばれるのであった。 溢れるような日光が硝子や招牌、旗などの上に漲っているのを一方に眺めながら、身は薄・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・四月頃やっと雪がとけて、メーデーには、小雨でも降ると、まだどうしてなかなか冷えるという時候だ。 それが五月二十日すぎるとカーッと一時に夏になるんだ。 こないだまでその上でみんながスケートをやってたと思うモスクワ河には河童どもがいっぱ・・・ 宮本百合子 「ソヴェト労働者の夏休み」
出典:青空文庫