・・・実際其頃は犬殺しの徘徊すべき時節ではなかった。暑い時には大切な毛皮が役に立たぬばかりでなく肉の保存も出来ないからである。太十はそれを知って居る。そうして肉の註文を受けたことが事実であるとすれば赤は到底助かれないと信じた。赤犬の肉は黴毒の患者・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・冴返るなどと云う時節でもないに馬鹿馬鹿しいと外套の襟を立てて盲唖学校の前から植物園の横をだらだらと下りた時、どこで撞く鐘だか夜の中に波を描いて、静かな空をうねりながら来る。十一時だなと思う。――時の鐘は誰が発明したものか知らん。今までは気が・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・相手の心理状態と自分とピッタリと合せるようにして、傍観者でなく、若い人などの心持にも立入って、その人に適当であり、また自分にももっともだと云うような形式を与えて教育をし、また支配して行かなければならぬ時節ではないかと思われるし、また受身の方・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・ 今の如く役談家の繁昌する時節において、国のために利害をはかれば、政府をしてその議論を用いしむるも害あり、用いしめざるもまた害あり。これを用いんか、奇計妙策、たちまち実際に行われて、この法を作り、かの律を製し、この条をけずり、かの目を加・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・いわんや近来は世上に政談流行して、物論はなはだ喧しき時節なるにおいてをや。人の子を教うるの学塾にして、かえって、これを傷うの憂いなきを期すべからず、云々と。 我が輩、この忠告の言を案ずるに、ある人の所見において、つまり政治経済学の有用な・・・ 福沢諭吉 「経世の学、また講究すべし」
・・・と云って命令した時には、全く仕舞う時節が有るだろうと思ったね。――その解決が付けば、まずそのライフだけは収まりが付くんだから。で、私の身にとると「くたばッて仕舞え!」という事は、今でも有意味に響く。そこでこの心持ちが作の上にはどう現れている・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・今日の文学には、ただ題材のめずらしさより一歩ふみ入って人間の心にふれようとする意味で心理が描かれなければならず、諷刺の精神も活をいれられて結構の時節である。しかしながら、そういう意味での心理描写や、諷刺を幽鬼の街と村との内の世界に求めること・・・ 宮本百合子 「観念性と抒情性」
・・・十一月の氷雨がちのモスクワ市よりこの時節にはハリコフ市の方が気候がいいばかりではない。ドンバス炭坑区を近くに持ち、大国営農場、機械工場をもち五ヵ年計画とともにソヴェト同盟の南方地域では屈指の重工業、農業の生産中心地となった。 ハリコフ市・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」
・・・ さりながら一旦切腹と思定め候某、竊に時節を相待ちおり候ところ、御隠居松向寺殿は申に及ばず、その頃の御当主妙解院殿よりも出格の御引立を蒙り、寛永九年御国替の砌には、松向寺殿の御居城八代に相詰め候事と相成り、あまつさえ殿御上京の御供にさえ・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
・・・ちょうどいい時節が来たので、手紙を落します。するとあなたが段々わたくしに構わないようにおなりなさる。そこで平和の中にお別れが出来ると云うものじゃございませんか。 男。しかしなぜわたくしの恋をさまさなくてはならないのですか。 女。それ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
出典:青空文庫