・・・栄子たちが志留粉だの雑煮だの饂飩なんどを幾杯となくお代りをしている間に、たしか暖簾の下げてあった入口から這入って来て、腰をかけて酒肴をいいつけた一人の客があった。大柄の男で年は五十余りとも見える。頭を綺麗に剃り小紋の羽織に小紋の小袖の裾を端・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・それから唖々子と島田とがつづいて暖簾をくぐるようになったのである。 もうそろそろ夜風の寒くなりかけた頃の晦日であったが、日が暮れたばかりのせいか、格子戸内の土間には客は一人もいず、鉄の棒で境をした畳の上には、いつも見馴れた三十前後の顔色・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・ 白暖簾の懸った座敷の入口に腰を掛けて、さっきから手垢のついた薄っぺらな本を見ていた松さんが急に大きな声を出して面白い事がかいてあらあ、よっぽど面白いと一人で笑い出す。「何だい小説か、食道楽じゃねえか」と源さんが聞くと松さんはそうよ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・横浜の親類へ行ッて世話になッて、どんなに身を落しても、も一度美濃善の暖簾を揚げたいと思ッてるんだが、親類と言ッたッて、世話してくれるものか、くれないものか、それもわからないのだから、横浜へ進んで行く気もしないんで……」と、善吉はしばらく考え・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・一太の家は、千住から小菅の方へ行く街道沿いで、繩暖簾の飯屋の横丁を入った処にあった。その横丁は雨っぷりのとき、番傘を真直さしては入れない程狭かった。奥に、トタン屋根の長屋が五棟並んでいて一太のは三列目の一番端れであった。どの家だってごく狭い・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・直という女は、何処からどう押しても押しようのない女、丸で暖簾のように抵抗ないかと思うと、突然変なところへ強い力を見せる性格として描かれている。おとなしいともうけとれるし、冷淡ともうけとれる。そういう日常の姿態の女として描かれている。妻とのせ・・・ 宮本百合子 「漱石の「行人」について」
・・・姓は源、氏は細木、定紋は柊であるが、店の暖簾には一文字の下に三角の鱗形を染めさせるので、一鱗堂と号し、書を作るときは竜池と署し、俳句を吟じては仙塢と云い、狂歌を詠じては桃江園また鶴の門雛亀、後に源僊と云った。 竜池は父を伊兵衛と云った。・・・ 森鴎外 「細木香以」
・・・これも焼芋の釜の据えてある角から二三軒目で、色の褪めた紺暖簾に、文六と染め抜いてある家へ買いに遣るのである。 主人は饂飩だけ相伴して、無頓着らしい顔に笑を湛えながら、二人の酒を飲むのを見ている。話はしめやかである。ただ富田の笑う声がおり・・・ 森鴎外 「独身」
・・・そして暖簾に腕押をしたような不愉快な感じをしたであろう。彼は「ええとも、今度来たら締めてしまうから」と言い放って、境の生垣の蔭へ南瓜に似た首を引込めた。結末は意味の振っている割に、声に力がなかった。「旦那さん。御膳が出来ましたが。」・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・十五年も辛抱したなら、暖簾が分けてもらえるし、そうすりゃあそこだから直ぐに金も儲かるし。」 そう父親がいうのに母親はこう言った。「大阪は水が悪いというから駄目駄目。幾らお金を儲けても、早く死んだら何もならない。」「百姓をさせば好・・・ 横光利一 「笑われた子」
出典:青空文庫