・・・覗いたように折れた其端が笠の内を深くしてそれが耳の下で交叉して顎で結んだ黒い毛繻子のくけ紐と相俟って彼等の顔を長く見せる。有繋に彼等は見えもせぬのに化粧を苦にして居る。毛繻子のくけ紐は白粉の上にくっきりと強い太い線を描いて居る。削った長い木・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ シャロットの女は眼深く額広く、唇さえも女には似で薄からず。夏の日の上りてより、刻を盛る砂時計の九たび落ち尽したれば、今ははや午過ぎなるべし。窓を射る日の眩ゆきまで明かなるに、室のうちは夏知らぬ洞窟の如くに暗い。輝けるは五尺に余る鉄の鏡・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・何人であっても赤裸々たる自己の本体に立ち返り、一たび懸崖に手を撒して絶後に蘇った者でなければこれを知ることはできぬ、即ち深く愚禿の愚禿たる所以を味い得たもののみこれを知ることができるのである。上人の愚禿はかくの如き意味の愚禿ではなかろうか。・・・ 西田幾多郎 「愚禿親鸞」
・・・その各の人の装幀の価値に応じて、より浅く、またより深く、より自己に近く、また自己に遠く。 萩原朔太郎 「装幀の意義」
・・・しかし、ほんとうにおいしい河豚は、海底深くいる底河豚だ。河豚は一枚歯で、すごく力が強く貝殻でも食い割ってしまう。したがって、海底での貝の身をエサにしている河豚の味がよくなるわけだが、この河豚を釣るのはそう簡単ではない。ソコブクの一コン釣りと・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・吉里の眼にはらはらと涙が零れると、平田はたまらなくなッてうつむいて、深く息を吐いて涙ぐんだ。 西宮は二人の様子に口の出し端を失い、酒はなし所在はなし、またもや次の間へ声をかけた。「おい、まだかい」「ああやッと出来ましたよ」と、小・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・人間たる者は和順、貞信、人情深くして心静なる可し。誠に申分なき教訓にして左こそありたきことなれども、此章に於ては特に之を婦人の一方に持込み、斯の如きは女の道に違うものなり、女の道は斯くある可しと、女ばかりを警しめ、女ばかりに勧むるとは、其意・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・だから一方に於ては、孔子の実践躬行という思想がなかなか深く頭に入っている。……いわばまあ、上っ面の浮かれに過ぎないのだけれど、兎に角上っ面で熱心になっていた。一寸、一例を挙げれば、先生の講義を聴く時に私は両手を突かないじゃ聴かなんだものだ。・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・己の心を深く動かした音楽が、神と人との間の不思議を聞せるような音楽が止んだ。大方己のために不思議の世界を現じた楽人は、詰らぬ乞食か何かで、門に立って楽器を鳴らしていたのが、今は曲を終ったので帽子でも脱いで、その中へ銅貨を入れて貰おうとしてい・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ 四季の題は多く客観的にして、『古今』以後客観的の歌は増加したれど、皆縁語または言語の虚飾を交えて、趣味を深くすることを解せざりしかば、絵画のごとく純客観的なるは極めて少かり。『新古今』は客観的叙述において著く進歩しこの集の特色を成しし・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
出典:青空文庫