・・・ 答 彼女は書肆ラック君の夫人となれり。 問 彼女はいまだ不幸にもラックの義眼なるを知らざるなるべし。予が子は如何? 答 国立孤児院にありと聞けり。 トック君はしばらく沈黙せる後、新たに質問を開始したり。 問 予が家は如・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・第二にある出版書肆は今しがた受取った手紙の中に一冊五十銭の彼の著書の五百部の印税を封入してよこした。第三に――最も意外だったのはこの事件である。第三に下宿は晩飯の膳に塩焼の鮎を一尾つけた! 初夏の夕明りは軒先に垂れた葉桜の枝に漂っている・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ この当事者と云う男は、平常私の所へ出入をする、日本橋辺のある出版書肆の若主人で、ふだんは用談さえすませてしまうと、そうそう帰ってしまうのですが、ちょうどその夜は日の暮からさっと一雨かかったので、始は雨止みを待つ心算ででも、いつになく腰・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・出版の都度々々書肆から届けさしたという事で、伝来からいうと発行即時の初版であるが現品を見ると三、四輯までは初版らしくない。私の外曾祖父は前にもいう通り、『美少年録』でも『侠客伝』でも皆謄写した気根の強い筆豆の人であったから、『八犬伝』もまた・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ 私たちの著作を叢書の形に集めて、予約でそれを出版することは、これまでとても書肆によって企てられないではなかった。ある社で計画した今度の新しい叢書は著作者の顔触れも広く取り入れてあるもので、その中には私の先輩の名も見え、私の友だちの・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・このたびわが塾に於いて詩経の講義がはじまるのであるが、この教科書は坊間の書肆より求むれば二十二円である。けれども黄村先生は書生たちの経済力を考慮し直接に支那へ注文して下さることと相成った。実費十五円八十銭である。この機を逃がすならば少しの損・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・もしもそうでなかったらいかに彼の名文をもってしても、書肆の十露盤に大きな狂いを生じたであろうと思われる。 要するに西鶴が冷静不羈な自分自身の眼で事物の真相を洞察し、実証のない存在を蹴飛ばして眼前現存の事実の上に立って世界の縮図を書き・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・ わたくしは先年坊間の一書肆に於て饒歌余譚と題した一冊の写本を獲たことがある。作者は苔城松子雁戯稿となせるのみで、何人なるやを詳にしない。然しこの書は明治十年西南戦争の平定した後凱旋の兵士が除隊の命を待つ間一時谷中辺の寺院に宿泊していた・・・ 永井荷風 「上野」
・・・雑誌『三田文学』を発売する書肆は築地の本願寺に近い処にある。華美な浴衣を着た女たちが大勢、殊に夜の十二時近くなってから、草花を買いに出るお地蔵さまの縁日は三十間堀の河岸通にある。 逢うごとにいつもその悠然たる貴族的態度の美と洗錬された江・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・後に聞けば島田家では蔵書の紛失に心づいてから市中の書肆へ手を廻し絶えず買戻しをしていたというはなしである。 森先生の渋江抽斎の伝に、その子優善が持出した蔵書の一部が後年島田篁村翁の書庫に収められていた事が記されてある。もし翰が持出した珍・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
出典:青空文庫