・・・其枳の為に救われたということで最初から彼の普通でないことが示されて居るといってもいい。蘇生したけれど彼は満面に豌豆大の痘痕を止めた。鼻は其時から酷くつまってせいせいすることはなくなった。彼は能く唄ったけれど鼻がつまって居る故か竹の筒でも吹く・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・しばらくすると内から五十恰好の肥った婆さんが出て来て御這入りと云う。最初から見物人と思っているらしい。婆さんはやがて名簿のようなものを出して御名前をと云う。余は倫敦滞留中四たびこの家に入り四たびこの名簿に余が名を記録した覚えがある。この時は・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・しかし単なる科学の世界は、自己自身によってあり自己自身を限定する真実在の世界ではない、真の具体的実在の世界ではない。最初にいった如く、カントはこの問題を打切ったに過ぎない。実践といっても、そこからでは形式的規範が考えられるだけである。カント・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・私は後へ引返して、逆に最初の道へ戻ろうとした。そして一層地理を失い、多岐に別れた迷路の中へ、ぬきさしならず入ってしまった。山は次第に深くなり、小径は荊棘の中に消えてしまった。空しい時間が経過して行き、一人の樵夫にも逢わなかった。私はだんだん・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ そのために、彼が土竜のように陽の光を避けて生きなければならなくなった、最初の拷問! その時には、彼は食っていない泥を、無理やりに吐き出さされた。彼の吐いたものは泥の代りに血ににじんだ臓腑であった。 汚ない姿をして、公園に寝ていた、・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・なかなか私に言えそうもなかッたから、最初は小万に頼んで話してもらうつもりだッたのさ。小万もそんなことは話せないて言うから、しかたなしに私が話したようなわけだからね、お前さんが承知してくれただけ、私ゃなお察しているんだよ。三十面を下げて、馬鹿・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ゆえに、最初エビシを学ぶときより、我が、いろはを習い、次第に仮名本を読み、ようやく漢文の書にも慣れ、字の数を多く知ること肝要なり。一、幼年の者へは漢学を先にして、後に洋学に入らしむるの説もあれども、漢字を知るはさまで難事にあらず、よく順・・・ 福沢諭吉 「学校の説」
・・・が、同時にまた、一方において、人生に対する態度、乃至は人間の運命とか何とか彼とかいう哲学的趣味も起って来た。が、最初の頃は純粋に哲学的では無かった……寧ろ文明批評とでもいうようなもので、それが一方に在る。そして、現世の組織、制度に対しては社・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・それはわたくしが最初あなたに手紙を差上げて御面会がいたしたい、おいでを願いたいと申したのが子供らしいと申すのでございます。 こう申上げるのをお信じ下さいますでしょうか。どうも覚束のうございますね。わたくしはあなたの女の手紙は云々とお書き・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ 先ず最初に胸に浮んだ趣向は、月明の夜に森に沿うた小道の、一方は野が開いて居るという処を歩行いて居る処であった。写実写実と思うて居るのでこんな平凡な場所を描き出したのであろう。けれども景色が余り広いと写実に遠ざかるから今少し狭く細かく写・・・ 正岡子規 「句合の月」
出典:青空文庫