・・・「折角御嬢さんの在りかをつきとめながら、とり戻すことが出来ないのは残念だな。一そ警察へ訴えようか? いや、いや、支那の警察が手ぬるいことは、香港でもう懲り懲りしている。万一今度も逃げられたら、又探すのが一苦労だ。といってあの魔法使には、・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・彼女は犬の事ばかりか、未にわからない男の在りかや、どうかすると顔さえ知らない、牧野の妻の身の上までも、いろいろ思い悩んだりした。と同時にまたその頃から、折々妙な幻覚にも、悩まされるようになり始めた。―― ある時は床へはいった彼女が、やっ・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・今こそ全く不可能な、有りそうにない、嫌な、恐ろしい事が出来しなくてはならないのである。フレンチは目を瞑った。 暗黒の裏に、自分の体の不工合を感じて、顫えながら、眩暈を覚えながら、フレンチはある運動、ある微かな響、かすめて物を言う人々の声・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・何だって真の満足ってものは世の中に有りやしない。従って何だって飽きる時が来るに定ってらあ。飽きたり、不満足になったりする時を予想して何にもせずにいる位なら、生れて来なかった方が余っ程可いや。生れた者はきっと死ぬんだから。A 笑わせるない・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・こんな有様で、昼夜を分たず、ろくろく寝ることもなければ、起きるというでもなく、我在りと自覚するに頗る朦朧の状態にあった。 ちょうどこの時分、父の訃に接して田舎に帰ったが、家計が困難で米塩の料は尽きる。ためにしばしば自殺の意を生じて、果て・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・「私も暑い。赤いでしょう。」「しんは青くなっているんだよ……息が切れて倒れそうでね。」「おひや、ありますよ。」「有りますか。」「もう、二階ばかり上の高い処に、海老屋の屋根の天水桶の雪の遠見ってのがありました。」「聞い・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・これを聞いてか嫂が母に注意したらしく、或日母は常になくむずかしい顔をして、二人を枕もとへ呼びつけ意味有り気な小言を云うた。「男も女も十五六になればもはや児供ではない。お前等二人が余り仲が好過ぎるとて人がかれこれ云うそうじゃ。気をつけなく・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・略何人か能く卿に及ばん 星斗満天森として影あり 鬼燐半夜閃いて声無し 当時武芸前に敵無し 他日奇談世尽く驚く 怪まず千軍皆辟易するを 山精木魅威名を避く 犬村大角猶ほ遊人の話頭を記する有り 庚申山は閲す幾春秋 賢妻生きて灑ぐ・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・伝』の本道は大塚から市川・行徳雨窓無聊、たまたま内子『八犬伝』を読むを聞いて戯れに二十首を作る橋本蓉塘 金碗孝吉風雲惨澹として旌旗を捲く 仇讎を勦滅するは此時に在り 質を二君に委ぬ原と恥づる所 身を故・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・、義を慕う者は義の国を望むのである、而して斯かる国の斯世に於て無きことは言わずして明かである、義の国は義の君が再び世に臨り給う時に現わる、「我等は其の約束に因りて新しき天と新しき地を望み待り義その中に在り」とある(彼得、而して斯かる新天地の・・・ 内村鑑三 「聖書の読方」
出典:青空文庫