・・・ただ困るのは、すでに在る案内記の内容をそのままにいいかげんに継ぎ合わせてこしらえたような案内記の多い事である。これに反して、むしろ間違いだらけの案内記でも、それが多少でも著者の体験を材料にしたものである場合には、存外何かの参考になる事が多い・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・現時園内に在る建築物は帝室博物館と動物園との二所を除いて、其他のものは諸学校の校舎と共に悉く之を園外の地に移すべく、又谷中一帯の地を公園に編入し、旧来の寺院墓地は之を存置し、市民の居宅を取払ったならば稍規模の大なる公園となす事ができるであろ・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ チェイン・ローは河岸端の往来を南に折れる小路でカーライルの家はその右側の中頃に在る。番地は二十四番地だ。 毎日のように川を隔てて霧の中にチェルシーを眺めた余はある朝ついに橋を渡ってその有名なる庵りを叩いた。 庵りというと物寂び・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・七には物を盗心有るを去る。此七去は皆聖人の教也。女は一度嫁して其家を出されては仮令二度富貴なる夫に嫁すとも、女の道に違て大なる辱なり。 男子が養子に行くも女子が嫁入するも其事実は少しも異ならず。養子は養家を我家とし嫁は夫の家を我・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・智識の眼より見るときは、清元にもあれ常磐津にもあれ凡そ唱歌といえるものは皆人間の声に調子を付けしものにて、其調子に身の有るものは常磐津となり意気なものは清元となると、先ず斯様に言わねばならぬ筈。されど若し其の身のある調子とか意気な調子とかい・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・私の申しわけ、わたくしの取留めの無い挙動の申しわけはこの一字に在るのでございます。 ピエエルさん。わたくしはただいま白状いたします。わたくしはもう十六年前にあなたに恋をいたしていました。あなたが高等学校をお出になったばっかりの世慣れない・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ 彼の人が来れば仕事の有る時は、一人放って置いて仕事をし、暇な時は寄っかかりっこをしながら他愛もない事を云って一日位座り込んで居る。 あきれば、「又来ます、気が向いたら。と云って一人でさっさと帰って行く。 私は、・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・その無いものを有るかのように考えなくては、倫理は成り立たない。理想と云っているものはそれだ。法律の自由意志と云うものの存在しないのも、疾っくに分かっている。しかし自由意志があるかのように考えなくては、刑法が全部無意味になる。どんな哲学者も、・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・「そうかて谷川って云うのは、あの家一軒ばち有るか。お前とこの株内や。」「だいたいあの家、俺は好かんのや。」「贅沢ぬかしてよ。俺が連れてってやるぞ。立て立て。」「あっこはとても駄目って。」「あくもあかんもあるもんか。手前、・・・ 横光利一 「南北」
・・・彼らにとって美は目前に在るものの内にひそんでいる。机の上の果物、花瓶、草花。あるいは庭に咲く日向葵、日夜我らの親しむ親や子供の顔。あるいは我らが散歩の途上常に見慣れた景色。あるいは我々人間の持っているこの肉体。――すべて我々に最も近い存在物・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫