・・・大金持になれば御世辞を言い、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何という有難い志でしょう。何という健気な決心でしょう。杜子春は老人の戒めも忘れて、転ぶようにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落しなが・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・仁右衛門はそれを赤坊に飲ませろとさし出されたが、飲ませるだけの勇気もなかった。妻は甲斐甲斐しく良人に代った。渇き切っていた赤坊は喜んでそれを飲んだ。仁右衛門は有難いと思っていた。「わしも子は亡くした覚えがあるで、お主の心持ちはようわかる・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・毎晩毎晩同じ夜具を着て寝るってのも余り有難いことじゃないね。B それはそうさ。しかしそれは仕方がない。身体一つならどうでも可いが、机もあるし本もある。あんな荷物をどっさり持って、毎日毎日引越して歩かなくちゃならないとなったら、それこそ苦・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ ……「ああ、お有難や、お有難い。トンと苦悩を忘れました。お有難い。」と三味線包、がっくりと抜衣紋。で、両掌を仰向け、低く紫玉の雪の爪先を頂く真似して、「かように穢いものなれば、くどくどお礼など申して、お身近はかえってお目触り、御恩は忘・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・それゆえに有難いことでございます。もしわれわれが事業を遺すことができなければ、われわれに神様が言葉というものを下さいましたからして、われわれ人間に文学というものを下さいましたから、われわれは文学をもってわれわれの考えを後世に遺して逝くことが・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ああ、有難いこっちゃ、血なりゃこそこんなむごい父親でもお父っちゃんと呼んで想いだしてくれたのかと、さすがに泣けて、よっぽど将棋をやめて地道な働きを考え、せめて米一合の持駒でもつくろうとその時思ったが、けれど出来ずにやはり将棋一筋の道を香車の・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・何の道にも苦しい瀬戸はある。有難い。お蔭で世界を広くしました。」と心からしみじみ礼を云って頭を畳へすりつけた。中村も悦ばしげに謝意を受けた。「ところで若崎さん、御前細工というものは、こういう難儀なものなのに相違無いが、木彫その他の道・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・実におもしろい事で、また盛んなことで、有難い事で、意義ある事である。悪口をいえば骨董は死人の手垢の附いた物ということで、余り心持の好いわけの物でもなく、大博物館だって盗賊の手柄くらべを見るようなものだが、そんな阿房げた論をして見たところで、・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・感情が測られず、超常的言語など発するというのは、もともと普通凡庸の世界を出たいというので修業したのだから、修業を積めばそうなるのは当然の道理で、ここが慥に魔法の有難いところである。政元からいえば、どうも変だ、少し怪しい、などといっている奴は・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・定めし男の方でも自分の言葉を思出して「説法は有難いが、朝飯の方が尚有難い。」とかなんとか独語を言い乍ら、其日の糧にありついたことであろう。 島崎藤村 「朝飯」
出典:青空文庫