・・・ 面白やどの橋からも秋の不二 三島神社に詣でて昔し千句の連歌ありしことなど思い出だせば有り難さ身に入みて神殿の前に跪きしばし祈念をぞこらしける。 ぬかづけばひよ鳥なくやどこでやら 三島の旅舎に入りて一夜の宿りを請えば・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・きより月天心貧しき町を通りけり羽蟻飛ぶや富士の裾野の小家より七七五調、八七五調、九七五調の句独鈷鎌首水かけ論の蛙かな売卜先生木の下闇の訪はれ顔花散り月落ちて文こゝにあら有難や立ち去る事一里眉毛に秋の峰寒し・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 人間の醜さ、人間の有難さ、其は只、彼等の仲間である人間のみが知る事を得ます。 頭を下げても下げても、下げ切れない程、あらたかな人の裡には、憎んでも憎み切れない或物が倶に生きて居ります。 苦笑するような心持は、十や十一の子供には・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・生れたときから其那注意で育てられたのかということを、今特に強く思う。有難いのと畏しいのと一緒に心の中に蠢くのを止える事は出来ない。 数冊の本の中に、安成二郎氏の恋の絵巻という本がある。その表題に一寸母上が何故其を送ってよこされたかが疑わ・・・ 宮本百合子 「樹蔭雑記」
・・・真ギはわからないが、若し日本の社会主義者が本所深川のように、逃場もないところの細民を、あれほど多数殺し家をやき、結局、軍備の有難さを思わせるようなことをするとしたら、実に、愚の極、狂に近い。 鮮人の復讐観念が出たのなら、或程度までそれぞ・・・ 宮本百合子 「大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録」
・・・ けれども有難いことには、まだ倦怠を知らぬ活き活きとした生理的活動が、あの弾力に満ちた発育力のうちに、それ等の尊い感情の根元だけを辛うじて暖く大切に保存していてくれた。 何か一つの転機が、彼女の上に新らしい刺戟と感動とを齎しさえすれ・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・ けれども、有難いことには、昨日のあの瞬間から――彼が泣き伏しながら拝みたい心持になったときから――彼の魂は真当な休みどころを見つけた。 そこだけは、いつも明るく暖かく輝いている。 辛かったら来るがいい…… 泣きたくなったら・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・思想上種々なコンフリクトがあったとしても、自分のその有難さ丈は一点の汚辱も受けないのである。 母が、それをすっかり理解し、自分も其点で、希望と信頼とを持って呉れたら、どんなによいだろう。性格の異うこと、何と云っても、彼女は芸術家には生れ・・・ 宮本百合子 「二つの家を繋ぐ回想」
・・・ 若し、自分の家に居て、何の不自由も感じない生活の中に於てなら、或は、不満さえ抱くかもしれないものにさえ深い有難さを感じずには居られない。 よく本を送って下さる。遠い所を手荒な人足の手で、船艙へ投り込まれ、掴みまわされて運ばれて来る・・・ 宮本百合子 「無題(一)」
・・・それだけの恐ろしい目に会わなかったことを実に仕合わせに有難くは思うが、万事が落付くまで、生れた東京の苦しみを余処にのんべんだらりとしてはいたくない。大丈夫だろうとは思いながらも、親同胞、友達のことを案じ、一刻も早く様子を見たい心持が、まるで・・・ 宮本百合子 「私の覚え書」
出典:青空文庫