・・・ 市の町々から、やがて、木蓮が散るように、幾人となく女が舞込む。 ――夜、その小屋を見ると、おなじような姿が、白い陽炎のごとく、杢若の鼻を取巻いているのであった。大正七年四月・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・背景勝手に、紫の木蓮あるもよし。よろず屋の店と、生垣との間、逕をあまして、あとすべて未だ耕さざる水田一面、水草を敷く。紫雲英の花あちこち、菜の花こぼれ咲く。逕をめぐり垣に添いて、次第に奥深き処、孟宗の竹藪と、槻の大樹あり。この蔭より山道をの・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・すると木蓮によく似た架空的な匂いまでわかるような気がするんです」「あなたはいつでもそうね。わたしは柿はやっぱり柿の方がいいわ。食べられるんですもの」と言って母は媚かしく笑った。「ところがあれやみんな渋柿だ。みな干柿にするんですよ」と・・・ 梶井基次郎 「闇の書」
・・・翌朝見ると、山吹の垣の後ろは桑畑で、中に木蓮が二、三株美しく咲いていた。それも散って葉が茂って夏が来た。 宿はもと料理屋であったのを、改めて宿屋にしたそうで、二階の大広間と云うのは土地不相応に大きいものである。自分は病気療養のためしばら・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・ 四月も末近く、紫木蓮の花弁の居住いが何となくだらしがなくなると同時にはじめ目立たなかった青葉の方が次第に威勢がよくなって来るとその隣の赤椿の朝々の落花の数が多くなり、蘇枋の花房の枝の先に若葉がちょぼちょぼと散点して見え出す。すると霧島・・・ 寺田寅彦 「五月の唯物観」
今日などはもう随分暖い。昨夜一晩のうちに机の上のチューリップがすっかり咲き切って、白い木蓮かなどのように見える花弁の上に、黄色い花粉を沢山こぼしている。太い雌芯の先に濃くその花粉がついて、自然の営みをしているが、剪られた花・・・ 宮本百合子 「塵埃、空、花」
「春」と云う名のもたらした自然の賜物の中にすべての美がこめられて私達の目前に日毎に育って居る。 晴ればれと高い空を見ながら木蓮の白い花が青と紫の中に浮いて居るのを見ながら、私の心は驚くばかりの美を感謝もし讚えても居る。・・・ 宮本百合子 「繊細な美の観賞と云う事について」
・・・ 肇はガラス戸をあけて体を乗り出して木の幹の間をすかして裏庭を見た。 木蓮の葉のまっ青な群の下に籐椅子を据えて「ひざ」の上に本をふせたまんま千世子は何か柔い節の小唄めいたものを歌って居た。「見えるの?」 篤は重なって肇の頭の・・・ 宮本百合子 「蛋白石」
・・・ 千世子の声はいつもよりつやつやしく力に満ちて白い雲の多い空の高い処へ消えて行く様だった。 篤は窓からのり出して木の幹の間から彼方をすかし見た。 木蓮の木の下に籐椅子をすえて千世子が居るのを見つけた。 ゆるく縞の着物の衿をか・・・ 宮本百合子 「千世子(三)」
・・・ 私のきらいなあの紅い椿も、今日は、うるんだ色に見えて居るし、高々と、空の中に咲いて居る白木蓮の花が、まぶしい。 私の体のまわりに一時きに春が迫った様な感じがする。 洗った髪を肩に下げて、一枚着物をうすくした体をあっちこっちと運・・・ 宮本百合子 「南風」
出典:青空文庫